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未来創造堂 第91回~第100回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第91回~第100回で放映された偉人をまとめました。

化粧の未来を切り拓いた男 坂本 光彦

第91回で「坂本光彦物語」を放映

昭和40年代、女性の購買力が上がり化粧品が飛ぶように売れ始めました。ソファのクッションのスポンジの加工をしていた坂本氏は、これからは、化粧品の時代。このスポンジを化粧品に活かせないか考えます。

その頃女性達の間に広がっていた化粧品の代表格がファンデーション。ファンデーションを伸ばすにはスポンジが便利ですが、その当時のスポンジはすぐにボロボロになってしまいます。その原因は油分でした。従来のスポンジは天然ゴムから出来ていました。その天然ゴムが化粧品に含まれている油分で膨張・劣化を起こしていたのです。そこで坂本氏は、油分に強い合成ゴムを探し出して、耐油性に優れたスポンジの開発に成功。

ところが、このスポンジではファンデーションにムラが出来てしまいました。その原因は気泡でした。スポンジは溶かしたゴムに空気の泡を閉じ込めて作ります。この気泡にバラつきがあると、ファンデーションを伸ばした時にムラになってしまうのです。改善方法を考えていた坂本氏は、グラスに注ぐビールを見て閃きます。キメ細やかな泡を作る為にグラスをちょっと傾ける。コレです。スポンジを型に流し込む時に少し傾けて流すとキメ細やかなスポンジが出来ることが判明しました。

油分に強く、ムラの出来ないスポンジが完成しましたが、柔らかすぎて化粧がしにくいという問題が出ました。原因は気泡の大きさでした。スポンジが柔らかいということは、内部の気泡が大きすぎるということです。何かいい方法はないかと思っていた坂本氏が目を付けたのはカステラでした。カステラの生地の弾力、そのポイントは生地を丹念に攪拌することでした。その知恵を活かし、原料のゴムに空気を混ぜる時には丹念に攪拌することにしました。
さらに身近な物をヒントに思いつきます。それがシラス。シラスのようにしっとり感を残して乾燥させることができればシラスは、じっくりと時間をかけて低温の温風で乾燥させることで、あのしっとり感を保っています。ならばと、シラスの乾燥機でスポンジを乾燥させてみたところ、これが成功。

こうして、10年の月日をかけて坂本氏のスポンジが完成しました。耐油性があり、ムラ無く塗れて、ほどよい弾力としっとり感のあるスポンジです。このスポンジ開発のノウハウで、各社の成分に合わせたスポンジを作り分けられるようになりました。その技術、国内だけではなく海外でも対応することができました。世界の7割の化粧品メーカーが坂本氏のスポンジをパフとして使用しています。

 

 

地図の未来を切り拓いた男 大迫 正冨

第92回で「大迫正冨物語」を放映

日本全国の建物の形とその居住者の名前が書かれている地図、「住宅地図」この地図は、実際に人間が歩き回って製作されているそうです。そんな地図を生み出した人が大迫正冨氏です。

昭和22年、大分県別府市。農家の三男坊だった大迫氏は、将来への夢模索していました。受け継ぐ田畑も無く、自分の力でなんとかしなければならなかったのです。別府には、別府八湯と呼ばれている温泉が集まっています。当時の観光客の間では温泉のハシゴが流行っており、温泉を行き来する人で賑わっていました。それを見た大迫氏は、温泉の効能等や名所旧跡を載せた情報誌を作ることにしました。その情報誌に、温泉案内図として簡単な地図を載せたところ、これが反響を呼びます。商店や温泉旅館の問い合わせが殺到し、掲載を要望するものでした。
これをきっかけに、地図がみんなに喜ばれることを知った大迫氏。日本には、江戸の町並みを記した古地図はありましたが、とても狭い範囲でした。その当時の地図といえば、大雑把な道路地図のようなものしかなかったのです。
それならばと、一軒一軒を記した地図を作る事を決意します。その当時、住宅が2万軒を超える別府市で江戸の古地図に習った地図を作ってみせよう。大迫氏は一軒一軒歩いてまわり、目見当で道を書き、表札の名前をメモしていきました。1日10時間歩き、暑い日も寒い日も地道な作業を続けました。昼に調査した資料を夜に清書する。雨の日も風の日も作業は続きました。
調査を開始して半年、ようやく地図が完成しました。昭和27年のことです。その地図は、配達仕事の多い商人に引っ張りだこになり、店を探してる人々にも重宝されました。その後、地図の範囲を九州全土に広げ、見事に住宅地図を完成させた大迫氏は日本全国で同じ地図を作ろうと決意します。日本各地に支店を置き、年間延べ約28万人の調査員を動員し、こうして、今では日本全国の99%を網羅しています。その調査は全て歩いて行われました。その足で稼いで集めた情報は、「Google Earth」にも活用されています。

 


スピーカーの未来を切り拓いた男 堀 昌司

第93回で「堀 昌司物語」を放映

平面スピーカーというのをご存知ですか?従来のスピーカーより薄型で、より遠くへ音を使えることの出来るスピーカーです。その優れたスピーカーを開発した人が、堀 昌司氏です。
1990年代後半、多くのメーカーがパソコンやテレビの薄型を目指していました。その頃、コンピュータのシステムエンジニアだった堀氏は、ふと思います。テレビは進化していくのに、スピーカーは変化していかない。このままでは薄型にするのにも限界があるぞ と・・大胆にも堀氏は、それまでの仕事を辞めて、スピーカーの会社を立ち上げたのです。薄いスピーカーを創る!会社名はFPS(エフピーエス)と名付けられました。フラット・パネル・スピーカー 平面スピーカーという意味です。

オーディオ業界では、大きい音を出すには磁石を厚くするのが常識、薄いスピーカーなんて出来る訳が無いと思われてきました。スピーカーは、磁石とコイルと振動板で出来ています。コイルに流れた電気信号に磁石が反応し、それが振動坂に伝わって音になっています。この為大きな音を出すには磁石の厚みが必要で、奥行きのあるスピーカーになってしまうのです。

薄い磁石とコイルでは、振動坂に伝えるパワーが小さく、大きな音はでません。ある日堀氏は、パソコンの画面を見ていて思いつきます。パソコンで画像を表示させる時、画像の鮮明さを決めるのはドットと呼ばれる点です。いわゆる画素数ですね、これは数が多ければ多いほど、画像は鮮明になります。

ならば、磁石を点と考えて並べてみてはどうだろう?1つのスピーカーに磁石は1つという常識を覆し、小さな磁石を並べたスピーカーを試作しました。すると音は大きくなりました。薄くて大きな音の出るスピーカーは出来ました。しかし、その音質が酷く、メーカーへの売り込みは大失敗に終わりました。そんな中、一人だけ試作品の特性に目を向けた人がいました。そのスピーカーはものすごく薄いくせに音は遠くまで届くぞ!音が遠くに届く秘密は、並べられた小さな磁石にありました。従来のスピーカーの音は波紋のように拡散していきますがこれに対して平面スピーカーは平らな振動坂によって音が直進するのです。

このスピーカーは必ずモノになる。しかしスピーカーの命は音質!それから堀氏は、有名スピーカーの音をかたっぱしから聞いて歩きました。研究を重ね、理想の音の波形を見つけました。その波形の音を出す鍵は振動板にあると考え、理想的な素材を探し求めました。探すこと3年、ついに最高の素材と巡りあいます。パソコン等に使われていた「高分子フィルム」です。従来のスピーカーとは縁もゆかりもない素材ですが高分子フィルムを使って作られたスピーカーの音は理想的は波形を示しました。

2001年秋、かつて平面スピーカーを貶したメーカーの技術者を集め試聴会を開きました。結果は大絶賛! 豊かな温もりのある音に驚嘆されました。今やこの平面スピーカーは甲子園球場に採用された他、音の反響が無いことから、衆議院本会議場にも使われています。2003年にはアメリカのホワイトハウスにも取り付けられました。そして、わずか2cmの薄型テレビにも搭載されました。堀氏のスピーカーが無ければ、2cmという薄さは実現出来なかったかもしれません。

 

 

ニットの未来を切り拓いた男 島 正博

第94回で「島 正博物語」を放映

シャツのような織物とセーターのような編み物、編み物はすべてニットと呼ばれています。ニットは編み機を使って編むことは出来ますが、最後は各パーツを手で縫い合わせる必要がありました。つまり、手間暇のかかる物だったのです。糸をセットするだけで、後は全自動でセーターを編み上げてくれる機械。そんな夢のような機械を作り出したのが、島正博氏です。

1980年代後半、手間暇かかるニット商品の製造は、格安の人権費で物を生み出す中国の独壇場でした。「このままでは、ファッション先進国の繊維業は生き残れない。」どうにかならないかと、相談を持ちかけたのは、ベネトンのファッションデザイナーでした。品質が高く、量産が可能な新しい編み機。島に話を持ちかけたのには理由があります。今から約50年前、世界に先駆けて、全自動軍手編み機を作り出した人物 それが島正博氏だったのです。

人の手を借りずに最後まで全自動でセーター編み上げる機械が出来ないものか・・島は、軍手を逆さに見た時にひらめきました。軍手の親指と小指を両腕と見立て、後の指を切ってしまえば、軍手とセーターの構造は同じだ!それから来る日も来る日も設計図をひき、完成を目指しました。苦労の末試作品が完成しましたが、そこには時間の壁が立ちはだかりました。人間の手を使って3時間で完成するセーターが、島の試作品では5時間かかってしまうのです。

そこで島氏は原点に戻ります。その時使われていた編み針はベラ針と呼ばれている物でした。この可動式針は、半円を描くようにして糸を編み上げていきます。半円の動きではロスが大きい、島氏は直線的に動くスライド針を作り上げました。この改良により、編むスピードは格段にアップしました。

開発を始めてから約10年、ついに完全自動ニット編み機が完成しました。糸をセットしてから一枚のセーターが完成するまで、わずか60分!この機械を始めて目にした、ジュリアーナ・ベネトンは「東洋のマジックが起きた!」と驚嘆したそうです。そして今、ベネトンやアルマーニといった名立たるメーカーでは、この編み機が使われています。

 


宇宙観測の未来を切り拓いた兄弟 中村兄弟

第95回で「中村兄弟物語」を放映

中村兄弟は、小さな町工場で望遠鏡や天体観測装置等を作っていました。高い技術力は認められていたものの、大きなプロジェクトには参加できませんでした。そんな兄弟に転機が訪れます。機械を納入する為に訪れた宇宙科学研究所。その研究所では、スペースシャトルに搭載するカメラを製作していました。でも、納得のいくカメラが作れない。NASAからは、不良品だと言われ試作機のテストまであと半年を切っていました。

エリートでも作れないカメラ、兄弟の負けん気が刺激されました。大手メーカーの構造は、カメラ本体を一点で支えていて接合部の強度は重視していませんでした。これでは、シャトル発射の衝撃に耐えられないのではないかとNASAから指摘を受けていました。煮詰まってるエリートの前で、中村兄弟は自分達のアイディアを発表します。大事な物は片手で持ちませんよね?

赤ちゃんを抱く時は両手で抱えるじゃないですかカメラを三脚に置くのではなく、カメラを土台で包みこむ構造。エリート達も目から鱗でした。もの創りに必要なのは学歴じゃない。独創性が不可能を可能に変えるんだ。この単純明快な発想で、中村兄弟は大手メーカーと並びカメラの製作を認められました。

宇宙で使用するカメラ、それは激しい振動や温度差にも耐えなければなりません。カメラ製作に与えられた時間は半年、大手に比べれば設備も乏しいそれでも兄弟は難関に立ち向かいなんとか試作品を完成させました。そして、NASAの厳しい最終テストの日を迎えます。そのテストは、振動、重力、真空、温度など過酷な条件を想定して行われました。

まず振動テスト、他社の製品は接合部分を強化したものの振動に耐えられませんでした。一方、中村兄弟の抱える構造はビクともしませんでした。そして、なにより性能に明らかな差が出たのは低温耐久テスト。NASAの出した条件は-150℃で正常に作動する物でした。他社は理論上では完璧な物を用意していましたが-120℃で動かなくなってしまいました。中村兄弟のカメラは、なんと-170℃になっても正常に作動したのです。

その発想は、またも単純明快なものでした。他社が新素材やヒーターの開発に力を入れていたのに対し中村兄弟は外側の金属を二重構造にして、カメラ本体を温度変化から守っていたのです。1983年、中村兄弟のカメラはスペースシャトルに搭載され無事打ち上げられました。その後2007年、月周回衛星「かぐや」のプロジェクトにも中村兄弟は参加しています。

 


納豆の未来を切り拓いた男 半澤 洵

第96回で「半澤 洵物語」を放映

納豆はかつてワラで作られていました。このワラが曲者で、雑菌を多く含み食中毒の原因となっていたのです。現在のように、安全に納豆が食べられるようにになったのは、半澤氏のおかげなのです。

半澤 洵は、北海道札幌に生まれ、札幌農学校に学びバクテリアの研究をしていました。転機が訪れたのは、ヨーロッパ留学の時でした。初めて口にしたチーズに半澤氏は腰を抜かしました。大正時代の日本人は体格も貧相で、栄養不足も多かったのです。チーズのようにたんぱく質を多く含んだ発酵食品があれば・・・その時、半澤氏の頭に浮かんだのが「納豆」でした。納豆の起源は古く、その栄養価も満点だったのですがワラに付いた納豆菌から作られていた為に食中毒になることも多く夏は腐りやすいと、製造方法が難しかった為に親しまれていませんでした。

みんなが安心して食べられる納豆を作ろう。半澤氏は、納豆の研究に取り掛かりました。大正4年のことでした。ワラの中に含まれている納豆菌だけを取り出すことは、科学者の半澤氏には簡単なことでした。この納豆菌を水に溶かし、蒸した大豆にふりかけてみる。理屈の上では、これで納豆が出来るはず・・・納豆が発酵してネバネバが多いほど美味しい納豆と言えます。半澤氏は、発酵の鍵は温度と時間と睨み、ひたすらネバネバを求め研究を続けます。研究の末見つけたのは、摂氏40℃で12時間から24時間ということでした。

しかし、これは研究所でのこと。納豆を広く全国に普及させる為に、容器の研究を始めました。大きな壷で試したところ、作り方はデータ通りなのにネバネバが出ません。困り果てた半澤氏は、ワラに包まれている納豆を見て気付きます。発酵には酸素が必要だったのです。密閉された容器では呼吸ができない、大きな器では中の大豆に空気が届かないから発酵しにくいのです。ワラは良く出来た器だったのです。

半澤氏は、北海道の特産で折り詰めなどに使われている経木に目を向けます。通気性と殺菌効果があり、サイズも簡単に加工できました。半澤氏が定めたのは、大豆4勺 約40グラム蒸した大豆に納豆菌をかけ、小ぶりの容器に入れ40℃で発酵させる。半澤氏の納豆製造法は確立された瞬間でした。

大正8年、半澤氏は「納豆」という雑誌を創刊し、全国に正しい作り方を広めました。半澤式納豆製造法は、90年近く経った今も日本全国に広く受け継がれています。

 

 

内視鏡の未来を切り拓いた男 中坪 寿雄

第97回で「中坪寿雄物語」を放映

1950年、光学機器メーカーオリンパスと東大が共同して、世界初の胃カメラを実用化しました。このカメラのおかげで、胃がんなどの早期発見率が飛躍的にあがりました。しかし、現場の医師からは不満の声が多数上がっていました。

当時の胃カメラは、画像をその場で確認することが出来ず、撮影箇所も分かりにくいものでした。写った画像で腫瘍と判別しにくい物は、メスをいれて確認するしかなかったのです。異の中を自由自在に覗くことができて、写したい場所をそのまま撮影でいきないものか・・1959年、そんな医療現場の声を実現する為に、東大とオリンパス共同で新たなカメラ作りに着手することになりました。そのプロジェクトのリーダーに任命された人が、中坪寿雄氏です。

胃の中を自由に観察するには、カメラで捕らえた画像をチューブで手元に伝えなければいけません。当時の技術では夢のような話でしたが、中坪氏は外国の論文でヒントを得ます。ガラスは光を伝達する、画像の正体も光だからガラスで伝達できると考えました。しかし、曲がりくねった内臓にガラス棒は入れられません。そこで、当時断熱材などに使用されていたガラス繊維に注目します。細いガラス繊維を束ねてチューブにすれば、きっと画像は伝達できるはず・・

ガラスに関しては素人だった中坪氏は、専門家の元に泊り込んでガラス繊維の製造から学びました。ガラス繊維というのは、高熱で溶かしたガラスを糸状に伸ばした物で細い物だと、わずか1/100㎜の細さ。ガラスの糸といっても壊れやすいものではなく、引っ張った時の強度は、同じ細さの鉄よりも強いのです。このガラス繊維を束ねて光の伝達が出来るのか、中坪氏は何度も実験を繰り返し繊維1本1本にコーティングを施す方法に辿りつきます。コーティングすることにより光の乱反射を防ぎ、チューブの先にある物を手元で見ることが出来ました。

中坪の考えは間違っていなかった!自身満々で試作品を手に医師の元へ向かいました。しかし!医師の反応は冷たいものでした。写真より画質は悪く、黄色くくすんでいたのです。命を扱う現場では一切の妥協は出来ない・・ 中坪氏は基本から見直すことにしました。ガラス繊維のコーティングを改良の余地があると考え、成分の異なる特殊ガラスでコーティングしました。すると、色の変化は消え、正確な色彩が伝達出来るようになりました。

画像を鮮明にする為に、ガラス繊維の密度を上げました。これは、画素数が増えると鮮明になるデジカメと同じ要領です。無駄な隙間を無くし束ね方を追求して、直径7㎜のチューブに2万本のガラス繊維を収めることに成功しました。

着手から4年経った、1963年。改良された試作機を医師の元へ、そこで医師達の絶賛を浴び中坪氏の内視鏡は完成しました。この内視鏡は「ファイバースコープ」と呼ばれ世界中の医療機関から絶賛されました。その後内視鏡は進化を重ねて、臓器に応じたバリエーションが生まれた他現在では、超小型のビデオカメラが内臓された物が主流で
リアルタイムで患部を見ながら手術が出来るところまで進化しています。

 

 

バラの未来を切り拓いた男 鈴木 省三

第98回で「鈴木省三物語」を放映

フランス生まれの「アンジェリーク ロマンティカ」オランダ生まれの「グロリアス イルゼ」バラと言っても、色々な名前があります。「光彩」という名前のついたバラ、そのバラを作りだした男が鈴木省三氏です。

昭和20年、東京都心にも焼け跡が目立ち、復興に懸命になっている時代。鈴木氏は、郊外の一角で小さなバラ園を営んでいました。日本には、ノイバラやハマナスといった野生のバラが数多く存在しています。ところが、観賞用のバラは外国から輸入された高価なものばかりでした。しかも、輸入されたバラは気候の変化に弱く、日本ではすぐに枯れてしまったのです。

日本原産のバラを交配して、日本名のバラを世界に送り出したい。その思いを遂げる為、数多くのバラの交配を始めます。バラの交配は全て手作業、優れた品種を作るには膨大な手間と時間がかかりました。5万種類もの種を撒き、病気に強いもの、色・香りの良いものだけを選り分けます。わずかに残った花を交配し続けて、売り物になるバラは10年かかって10種類程しか生まれないのです。省三は、そんな気の遠くなるような作業をコツコツと繰り返し、ついに日本の原生種から強くて美しいバラを作り出しました。

これなら世界と勝負が出来ると思ったバラだったのですが、本場ヨーロッパの国際コンクールに挑んだ結果は散々なものでした。「ヨーロッパのバラをよく真似ている」「日本人にバラが作れるのか?」省三の努力と希望は打ち砕かれました。バラ以外でも戦後の日本は、西洋の技術を取り入れ真似をするのが精一杯。日本製は、安かろう悪かろう と思われていたのです。

世界で誰も作ったことのないバラを作る!省三が目をつけたのは、この世にない色のバラでした。当時、世界のバラ業界では、オレンジ色のバラは絶対に作れないと言われていました。西洋のバラ業界でも、赤と黄のバラの交配を試みて失敗に終わっていたのです。人間の目と勘では無理でも、科学の力でなんとかなるんじゃないかと、省三は薬学や医学の世界で成分分析で使われだした「分光光度計」に目をつけます。当時のお金で2000万円という大金をはたき機械を購入し、花びらに含まれる色の成分を機械でデータ化するという前代未聞の挑戦を始めました。この結果、赤色のバラの中にオレンジ色の成分が入っているということが分かったのです。

省三は、このオレンジの色素が多く含まれるバラ同士を交配させて、色素量を増やしていけば、必ずオレンジに辿りつくはずと考えました。データを取り、咲かせては枯れ、枯れては咲かせての作業を繰り返して13年。ついに、オレンジ色のバラが咲きました。ウォームオレンジという色彩の世界で唯一のバラ、名前を「光彩」と名付けました。

1988年、世界でも権威のあるコンクールにこのバラを出品。新しい品種と認められるには、色や形だけでなく気候や病気への耐久性も求められます。その結果、省三のバラはそのコンクールで優勝。世界最高のバラと評価され、アメリカの専門誌も「色形共に美しい完璧なバラ」と評価されました。それからも省三は、日本名のバラ「聖火」「乾杯」「芳純」などを次々に国際舞台に出し世界のバラ園芸家から敬意をこめて「Mr.Rose」と呼ばれるようになりました。Mr.Roseが一際大切にしていたバラが「晴世」二人三脚でバラを育て続けた妻の名前がついた一輪です。

 

 

和紙の未来を切り拓いた男 岩野 平三郎

第99回で「岩野平三郎物語」を放映

浮世絵や水墨画や屏風絵など古い日本画は全て和紙に描かれています。西洋の油絵が布製のカンバスに描くのに対し、日本画は和紙に描かれてきたのです。手すき和紙の時代が終わろうとしていた時に、新たな技法を編み出した人が岩野平三郎氏です。

古くから和紙の産地と知られる福井県今立、そこで越前和紙の職人をしていた岩野平三郎。大正9年頃、和紙の需要がた落ちし、毎日ため息をついていました。初の全国共通紙幣「太政官札」にも使われていた今立の和紙なのに緻密な印刷物となると洋紙には全く歯が立ちません。いつしか、紙幣はドイツ製の紙に乗り換えられ洋紙全盛の時代を向かえていたのです。さらに、明治期に本格化した繊維産業が日本画家達の創作活動を大きく変えました。和紙に変わり、絹本と呼ばれる絹を使ったカンバスが主流になったのです。

鉱石を砕き水とにかわで説いた絵の具は、絹のカンバスの上で鮮やかに発色しました。例えば、横山大観の「無我」は絹の上に描かれた傑作です。なんとしても和紙による日本画を復活させたいと願った岩野は名立たる巨匠達に自分が腕によりをかけた自慢の和紙を送りました。しかし、絹ほど丈夫ではない和紙の評価は散々なものでした。いくら試行錯誤しても、それまでの素材では絹より丈夫な和紙は出来ませんでした。

転機は、滋賀県石山寺で訪れます。そこで見たものは、平安時代に作られた古文書。1200年経っても衰えない発色と丈夫さに岩野は衝撃を受けました。麻によって作られたその紙は「麻紙」と呼ばれるもので正倉院にも伝えられているが、製法はとっくに廃れ幻の紙となっていました。麻は繊維が長がすぎて、すくと毛玉になって毛羽立ちやすかったのです。麻の紙を復活させてみせる!と岩野は色々と試行錯誤します。しかし、硬い麻の繊維はいくら煮込んでも多く攪拌してもダメでした。思い余った岩野は繊維を包丁で切り刻んでみました。それまでの和紙作りではありえない方法だったが、これが正解!繊維が適度に砕け、発色に優れた丈夫な紙が完成しました。

残る問題は表面の毛羽立ち。和紙本来の魅力は表面の滑らかさにあります。そこで編み出した技法が「二段すき」です。まず、なめらかな紙を作る「流しすき」という製法で1層目を作り続いて丈夫な紙を作る「溜めすき」という製法で2層目を作りました。これを合体させ2重構造の紙を作り出したのです。丈夫でありながら表面が滑らかな新しい和紙。岩野はこれを日本画の大家である横山大観に送りました。大観は、あらゆる面で絹より優れている岩野の和紙を大絶賛しました。世界最大の紙に書かれている作品「明暗」は、岩野の和紙に描かれています。大観はこれからの全ての作品に岩野の和紙を使いたいと、岩野に伝えたそうです。以来、岩野の和紙は、東山魁夷や平山郁夫といった日本画家達にも愛用されるようになりました。岩野の努力で日本画の画材は、絹から再び和紙に戻ったのでした。

国内の画家ばかりではなく、岩野の弟子である岩野市兵衛が作った和紙はパブロ・ピカソに注目され、版画の多くにその和紙が用いられています。

 

 

バレエの未来を切り拓いた男 土屋 誠

第100回で「土屋誠物語」を放映

バレエのイメージといえばつま先立ちではないでしょうか。つま先立ちのことをポワントと言います。ポワントの為に作られた特別な靴がトゥシューズです。戦後の日本で、日本人にあったトゥシューズを作った人が土屋誠氏です。

敗戦間もない1950年、多くの日本人は生きることに必死だった頃、当然バレエは、ほんの一握りの子女だけの習い事でした。そんな頃、東京の闇市をあても無く歩いていていた土屋は、靴屋の前で使い古されたトゥシューズを見つけます。バレエを見たこともなかった土屋ですが・・・こんな靴を買うのはお金持ちのお嬢様達だけ、これはきっと商売になると考えます。そして、トゥシューズを家に持ち帰り、同じ物を作ることから始めました。トゥシューズはバレリーナの体重をつま先で支える為、先端は硬く他は柔らかいという特殊な構造です。当時のトゥシューズはほとんどが輸入物で、日本では外国製を真似て細々と作られている程度でした。土屋も輸入物のトゥシューズを分解し、見よう見真似で試作品を完成させました。

土屋は早速試作品を持って、バレエ教室に売り込みに行きました。土屋が売り込みに行ったのは「小牧バレエ団」日本で初めて白鳥の湖、全幕公演を成し遂げた名門でした。そこに持ち込んだトゥシューズは彼女達からは見向きもされませんでした。トゥシューズは完璧に足と一体化していなければいけません。バレエを知らない土屋にまともなトゥシューズは作れるはずなかったのです。

見つめぬいた先に良いものが出来るんだ! と土屋はバレリーナの足、つま先をじっくり見ること始めました。少女達の足元をひたすら見つめ、その特徴をつかみ、シューズの木型を作っていきました。見つめ続けることで、日本人特有の足の特徴に気付きます。欧米人に比べ横幅が広く土踏まずが浅いコロッケ型なのです。作っては直し微調整を繰り返しながら日本人に合ったシューズを作ることに没頭しました。1年をかけ、日本人にあったトゥシューズが完成!これで高価な外国製品に頼らず、バレエの裾野も広がると思われました。

1970年代に入り、土屋の元に思わぬ要望が殺到します、シューズの耐久性です。激しい練習を重ねると、つま先がすぐ潰れてしまう・・・土屋は、あることを見落としていたのです。それは日本とヨーロッパの気候の差。トゥシューズのつま先は、何枚もの布を張り合わせて糊で硬さを保つプラットフォームという形で作られていました。
このプラットフォームは水に弱いのです。湿度高い場所で使うと汗で糊が柔らかくなり型崩れしやすくなります。

そこで土屋は、プラットフォームの改良に取り掛かりました。布ではなく水に強い素材で作れないか・・・苦心の末辿りついたのがプラスチック樹脂でした。水に強く軽いプラスチック樹脂を整形することでつま先を硬く保つことに成功したのです。世界初のこの作り方は「カウンター方式」と名付けられました。

1974年に発売された土屋のトゥシューズは評判を呼び大ヒット商品となりました。しかも、土屋のトゥシューズでバレエを始めた森下洋子さんが、その年のコンクールで優勝。日本人初の快挙に、バレエは俄然注目されることとなりました。バレエの世界を描く少女マンガも登場し、空前のバレエブームが訪れたのでした。その後、土屋の作った様々のダンス用品は高く評価され、海外の一流バレリーナ達にも愛用されてきました。

 

【編集後記】当時を振り返り

放送当時にブログにまとめた文章、未来創造堂の番組後半「コダワリのVTR」のナレーションを元に書いたものです。91~100回は、身近な「納豆の容器」から「宇宙で使うカメラ」まで幅広い分野のエピソードがありました。殆どは戦前の昭和から平成初期あたりのエピソードですが、「バラの未来を切り開いた男」なんかはいかにも昭和チックな話ですね。昭和時代の偉人のエピソードは世界で認められるようにと、とことんコダワリ、その負けん気と雑草魂を感じます。令和の日本でもそのようなコダワリを持って取り組んでいる人はいるとは思いますが、色々な企業の「不正」の報道を見ると昭和時代のような職人は減ってきているのかなと感じます。

 

与謝野晶子の名言「創造は、過去と現在とを材料としながら、新しい未来を発明する能力です」額付き書道色紙/受注後直筆(千言堂)V1941