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未来創造堂 第101回~第110回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第101回~第110回で放映された偉人をまとめました。

串料理の未来を切り拓いた男 小嶋 實

第101回で「小嶋 實 物語」を放映

おでんや焼き鳥などの串料理、日本では1日200万本以上の串料理が消費されています。今では、中国やアメリカでも串料理は大ブーム!それを裏で支えている機械、「万能自動串刺し機」の生みの親が小嶋實氏です。

時は1970年代、小嶋は町工場で家電用品の組み立て等をやっていました。ある日、仕事帰りに焼き鳥を食べようと思い店に立ち寄ると売り切れでした。串刺しには時間と労力がかかり、熟練した職人でも1時間でも100本刺せるかどうか遅い時間に店に行くと食べられないことが多々あったそうです。そんな時、店の主人から「串刺しの機械でも作ってくれよぉ」と言われました。その何気ない一言がキッカケで串を刺す機械を作ることにしたのです。

それまでの機械の組み立てのノウハウを活かしベルトコンベアに具を流し、串を突き刺す機械を作り上げました。しかし、この機械で作った串料理は串が抜けてしまいました。スピード重視で串を突き刺しただけの機械では使い物にならなかったのです。

その失敗を改善すべく、焼き鳥屋の仕込みを勉強しました。焼き鳥屋の大将の手の動き、鶏肉を指す時に波を描くように串を刺す手を動かします。そうやって波をうつように刺すことで抜けにくくなるのです。小嶋は、串を波の様に動かし肉に刺す方法を考える為に工場に篭りました。しかし、職人のような手の動きを機械で再現することは容易ではありません。串の動きを再現できないなら、押さえている具材の方を工夫すれば良いではないか・・・鶏肉を押さえるトレイを工夫できないかと考えた結果

肉を置く下のトレイと、それを押さえる装置の形をそれぞれ波型にすることを思いつきます。串を波のように動かす機械ではなく、肉を波型にして串を刺す機械を生み出したのです。まさに、逆転の発想!

これで、肉の形や大きさに関係なく均一に串を刺せるようになりました。もちろん肉が抜けることもありません。職人の手作業では1時間で100本しか作れなかったものを、最高2万本を作ることが出来ました。小嶋の研究はさらに続き、串を刺すのは難しい食材におよびました。

例えば、エビ!上から押す器具に突起を付け、エビのツボを押すことでまっすぐ刺せる工夫をしました。その研究の結果、抜けやすいコンニャクにも刺すことが可能になりました。研究で出来たトレイの数は、およそ1000種類におよびます。小嶋の作ったこの機械は、今や日本の串料理を世界に発信し食文化を支える担い手になっています。

 

 

はさみの未来を切り拓いた男 井上 弘

第102回で「井上 弘 物語」を放映

昭和30年代、今回の主人公、井上弘は家業のはさみの出荷で大忙しでした。父親の開発した医療用はさみが飛ぶように売れていたからです。彼の父、豊作は、はさみ業界に井上ありと言われる程の職人で医療用はさみから理容はさみまで切れ味の良さが評判を呼んでいました。はさみの切れ味は、刃と刃にあるわずかな隙間で決まります。良く切れるはさみは、閉じている時は刃がネジの後ろ部分と先端の2点でしか接していません。

はさみを動かしてみると、その接点が根元から先端へと滑らかに移動していきます。この時に力が1点だけに集中するから鋭い切れ味が生まれるのです。はさみ職人は、この隙間を作る為に刃を叩き1本1本調整していきます。井上の父は、この隙間作りの名人でした。

ところが、1963年、世界の美容界に革命が起こりました。イギリスの美容師、ヴィダル・サスーンがセットがいらないヘアカットを発表。それまでのヘアスタイルは、パーマやセットで形を作るのが主流でしたがサスーンは、カットだけで様々なデザインを作り出したのです。はさみを細かく動かすそのテクニックを可能にしたのは、ミニシザースと言われる小さなはさみ。井上のはさみは次第に隅に追いやられてしまいました。

井上は時代にあった新しいはさみを作り出す為に、外国からミニばさみを手に入れ研究を重ねました。日本製ミニばさみは程なく完成し、その品質は海外の物に劣らない出来栄えでした。ところが、海外製でも日本製でも大きな問題が起こりました。サスーンカットは、一度のカットで平均約3000回はさみを開閉します。その為刃先がすぐにボロボロになり、1ヶ月に1度、研ぎに出さなくては使い物にならなかったのです。

日本の技術で世界初の耐久性のあるはさみを作る。井上の研究が始まりました。まず取り掛かったのが素材選びです。井上が目をつけたのは、ジェット機のエンジンにも使われている材質で摩擦に強いコバルトでした。

コバルトではコストが高すぎる為、誰もはさみに使おうなんて思いませんでした。コバルトならはさみの激しい開閉に耐えられると井上は確信し、コバルトはさみの製作にかかります。しかし、はさみの命、刃の隙間の調整をしている時に事件は起こります。強いはずのコバルトが折れてしまったのです。コバルトは摩擦には強かったのですが、折れやすいという欠点があったのです。

窮地に陥った井上ですが、ある古い道具を思い出します。日本には、江戸時代から弓や竿の微妙なゆがみを叩かずに調整できる「矯木(ためぎ)」という道具があります。井上は、この矯木に全てを賭け、はさみ作りを始めました。するとコバルトの刃は折れることなく、その隙間を調整することができました。そしてついに2年の苦労の末、世界初のコバルトのはさみが完成したのです。

そのはさみは、切れ味が良く長持ちすると、瞬く間に評判になりました。その圧倒的な耐久性から、井上のはさみは海外へも進出井上を逆さから読んだ“上井(戸)”JOE WELL ジョーウェルと名付けられました。1978年3月アメリカ版「VOGUE」誌で取り上げられる等、世界に認められるはさみとなりました。ジョーウェルのはさみは、今や世界40ケ国に輸出されています。

 

 

冷凍技術の未来を切り拓いた男 大和田 哲男

第103回で「大和田哲夫物語」を放映

せっかく獲れた魚も一度冷凍してしまうと鮮度が落ちて、海外からの安い冷凍物に太刀打ち出来ない。1990年代始め、日本の水産業は衰退の兆しを見せ始めていました。
今回の主人公、大和田哲男(おおわだのりお)氏は業務用冷蔵庫の技術開発で世界に認められ、業界ではちょっと知られた人物でした。冷蔵では美味しい物は長持ちしません。ケーキは3日、ご飯は2日、お刺身は1日が限度です。美味しい物は長持ちしないという常識を覆したいと思っていた大和田は一念発起し「鮮度の落ちない冷凍技術を開発しよう」と決意します。

遠洋マグロの急速冷凍など、冷凍技術はすでに確立されたと思われていた為、私財を投じて開発しようとしていた大和田に周囲の人は皆呆れたそうです。「常識に囚われていたら新しい技術は生まれない」大和田はその信念の元、開発を始めました。

冷凍物の欠点は、食材に含まれる水分が外に出てきてしまうことでした。どんな物でも、冷凍させようと思うと外側から凍り始めます。外側が先に固まる為、中にある凍っていない水分が閉じ込められてしまいます。この時、水分は周囲の氷に押されてジワジワと外へ染み出していくのです。こうした水の移動が、組織や細胞が破壊され美味しさが損なわれる原因でした。

それならばと、大和田は超低温で一気に凍らせることを考えます。しかし、どんなに急激に凍らせても外側から凍り始めることは変わりません。ほんの僅かな時間差でも水が移動してしまっては結果は同じでした。水全体を一瞬で凍らせる方法は無いものか・・・ 大和田は懸命に知恵を絞りました。そして、ある時アメリカのパイロットから聞いた話を思い出しました。

アメリカ北西部には、フリージング・レインと呼ばれる不思議な雨が降ります。地表についた雨粒がその瞬間に凍りつくという現象です。そのメカニズムを知る為に、専門の大学教授の教えを請います。空中の雨粒が氷点下でも凍らないのは、特殊な気流と磁場の関係で水の分子が振動を起こしてるからでした。だから、地面に触れることで振動が止まると瞬間に氷に変わるというわけです。これだ! 常識を覆す現象がここにあったのです。

大和田は、氷点下でも凍らない水を人工的に作る機械の開発に取り組みました。冷凍庫に磁石を敷詰め、開発費が膨らみ赤字が増える一方でしたがこの技術が完成すれば食文化における一大革命になると確信していました。失敗を繰り返し試行錯誤の末、電気的に磁場を作り出す装置を開発し水の分子に特殊な振動を与えることに成功しました。その装置で振動を与えると、水は-20℃になっても凍らなかったのです。これはまさにフリージング・レイン。振動を止めると水は一瞬にして凍りつきました。食材にこの振動を与えながら温度を下げ、振動を止めれば全体が一気に凍りつき固体に変わる!
水の移動は一切行われないから細胞の破壊も起こりません。画期的冷凍技術 Cells Alive System(細胞が生きている冷凍法)の完成です。世界の水産業をリードしたいと考えていた大和田は、このシステムを日本のマグロ漁船に無償で提供。遠洋で獲れたマグロがこのシステムで冷凍され、初めて築地に水揚げされたのは2005年9月のことでした。

業者達はその鮮度に驚きました、普段ならキロ3000円のバチマグロに11000円の値がついたのです。このシステムを使えば、生産過剰で捨てるしかない野菜なども長期保存することが出来ます。それは、日本の第一次産業を救う道にもなり、さらには日本発の歯の凍結保存バンクで活躍し、再生医療の現場でも今後の活用が期待されています。

 

 

空の安全の未来を切り拓いた男 藤田 哲也

第104回で「藤田 哲也 物語」を放映

日本では、あまり馴染みのない竜巻。アメリカでは年間1000件以上の竜巻が発生し、その被害は1兆円とも言われています。1975年 アメリカの航空産業は急速に拡大していました。全米の空港を離陸する航空便は1時間に500便もあったのです。
その一方で、ある大きな問題が起こっていました。巨大な旅客機を煽る程の強風がなんの前触れもなく発生しトラブルが多発していたのです。この謎の風の調査を任命されたのが、藤田哲也氏でした。戦後アメリカに渡り、竜巻のメカニズムを発見した人物。シカゴ大学で気象学を研究する竜巻の専門家で“Mr.Tornade”と呼ばれる程でした。

目に見えない風の正体を付きとめる為、現場周辺の写真と情報を検証し、ある事に気付きます。竜巻が通った後にはらせん状の後が残るのに対し、この風は一定方向に大木がなぎ倒されている。竜巻ではない、では、この風は何なのか?藤田の研究方針は、徹底した現場主義。これまでも自ら現場に飛び込み大発見をしてきました。そして今回も、謎解明に繋がる重要な写真を入手しました。同じ日の同じ時刻に発生した風の跡の写真。それらを地図に並べると・・・ある地点を中心にして放射状に木がなぎ倒されていたのです。さらに、その時間の現場上空に積乱雲が発生していたことも突き止めました。

夏場に雷や夕立を起こすことで知られる積乱雲。藤田は以前の研究で、積乱雲が地上の空気を吸い上げて上昇気流を生み、その力が強まると竜巻が発生するというメカニズムを解明していました。しかし、今回は違います。積乱雲から地上に強い風が吹き降ろされたような跡が残されいます。藤田は、ある仮説を立てました。積乱雲の内部がある特別な条件で急激に冷えると、中の空気が重くなり下へ下へと降りてくる。それが加速度を増して爆風となり地面に吹き付ける。そして、地面に激突した風が周囲に広がり、木々を放射状になぎ倒したのではないか・・・しかし、気象学会は「突飛な考えだ」と笑い飛ばしました。目に見える証拠が無いからです。

目に見て分かるデータを取る為に、藤田は行動にでます。広大な野原にドップラー・レーダーと呼ばれる最新鋭の機械を設置。このレーダーは、大気中の水滴や塵に電磁波を当て、風の強さや向き、速度を測定し雲が発生している様子を画像で表示することのできる装置です。藤田は、このレーダーを垂直に当てたらどうだろう?と考えます。通常レーダーは雲に対して水平に向けられ、首を360度回転させます。これを、雲に対して垂直に当て、首を上下に振ることで雲から地上への風を観測しようと考えたのです。
これまで誰も考えたことすらない方法でした。

そして、雲を待つこと10日。ついにレーダーが反応しました。藤田の仮説通り、上空の積乱雲から吹き降ろす強い風がハッキリと映し出されたのです。この時測定された風は秒速80m、大木が根こそぎ倒れる程の強風でした。この脅威の風は、OWNBUST(ダウンバースト)と名付けられました。上から吹く爆風という意味です。藤田の功績は、アメリカの学者のみならず、航空関係者にも称えられました。

1992年 1台7億円もするドップラーレーダーが全米の空港に設置され今では、世界中でそのシステムが採用されています。見えないものとして恐れられていたダウンバーストが目で見て分かるようになったのです。レーダーが空港に設置された6年後、藤田博士は大空に帰りました。1998年11月19日 藤田哲也 逝去(享年78歳)

 

 

携帯電話の未来を切り拓いた男 山本 信介

第105回で「カメラ付き携帯電話誕生秘話」を放映

21世紀目前の西暦2000年。携帯電話は、すでに日本中に浸透していました。各社が次々に新機能を出している中、後発メーカーのシャープは苦戦していました。シャープの東広島工場で開発チームを率いていた男が今回の主人公 山本信介氏です。

他社をあっと言わせる新機能はないか・・ 山本は日夜悶々と考えていました。そんなある日、孫の写真を見せる上司を見て閃きます。携帯電話にカメラを付ければヒットするに違いない!ところが、この山本のアイディアは上層部の反対にあってしまいます。この時すでに他社製品で携帯と繋げるカメラが販売されていて、それが全く売れてなかったのです。この他社製品のネックはカメラが外付けということ。これではイザという時にもたついてしまって、大事シャッターチャンスを逃してしまいます。撮りたい時にすぐ撮れなければダメだ・・辿りついたのは、携帯電話とカメラの一体化です。

一体化するには大きな壁がありました。それは大きさの制約。小型化の進む携帯電話にカメラの機能を搭載するスペースはありませんでした。辛うじて詰め込むことが出来たのは超小型のカメラ。カメラといっても、その画質はデジカメに比べれば格段に落ちてしまいます。こんなおもちゃみたいなカメラを誰が使うんだ!社内の反応は冷ややかでした。

山本がヒントを見つけたのは、街中にいた女子高生達からでした。女子高生たちが楽しげに交換しているプリクラ。新しいコミュニケーションとして、プリクラは当時大ヒットしていました。「携帯につけるカメラはコミュニケーションの為の道具になる!」
本格的な風景写真を撮るのなら性能的に無理がある。でも、携帯に付けたカメラなら、今自分がどこで誰と何をしているかを撮影してメールで伝えられる。

携帯電話に必要なのは、自分の顔が撮れるカメラだ!と、山本は考えを改め「自分撮り」を特化したカメラの開発に取り掛かりました。手を伸ばした時の顔までの撮影距離は約60㎝。従来のレンズだと顔がはみ出てしまうので広角のレンズに変更しました。
当時は構造上液晶画面を見ながらの撮影が不可能だったので、レンズの横に小さな鏡を付けました。

順調に開発を続けていきましたが、新たな壁にぶち当たりました。問題になったのは、肌色です。当時のカメラ付携帯では、再現できる色が256色しか無かった為、試作品の撮影では、目の下にクマがあるように見えたり、ホホがこけて見えたりしたのです。微妙な色の変化が再現出来ないので、ちょっとした影も極端な色になってしまう。どうすればいいのか悩んだ山本は、256色しか無いという制約を逆手にとりました。性能を高くするではなく、あえて低く設定したのです。肌色などの中間色は、微妙の色の違いを無視するように工夫したのです。顔に少々の影が落ちたくらいでは反応しないようセンサーを大雑把にしたのです。その結果、肌がツルっとして綺麗に写るようになりました。さらに、風景や物も美しく見えるように、原色には細かく反応するように調整しました。

2000年11月。ついに満足のいくカメラ付き携帯が完成しました。しかし、それでもまだ社内では、この新製品がヒットするとは思われたいませんでした。その結果、同じデザインでカメラを搭載しないバージョンも同時発売されたのです。発売後の結果は、カメラ付携帯の圧勝でした。山本達の送り出した携帯は、自分の写真をメールで送るという新たなコミュニケーションを定着させました。カメラ付携帯電話は、「写メール」という言葉で一世を風靡し他社も次々と携帯電話にカメラを搭載するようになりました。今では、動画の撮影も簡単に出来るようになったカメラ付き携帯電話、ブログ等のコミュニケーションの場がより豊かになったと言えるでしょう。

 

 

相撲の未来を切り拓いた男 武蔵川 喜偉

第106回で「武蔵川 喜偉 物語」を放映

太平洋戦争が終結し、GHQの支配下となった日本。この時、日本の様々な国技が軍国主義の後押しをする危険なものとして禁止され相撲の象徴でもある国技館の接収命令が出されました。戦死した力士も多く、復員してきた者もガリガリ「戦前の人気力士達」は相撲どころでは無い上に、強制的な国技館の取り上げ相撲協会の役員達は、肩を落とし悲嘆にくれていました。そんな中、たった一人「国技館を復活させる」意気上がる役員がいました。それが今回の主人公、武蔵川喜偉(よしひで)氏です。

まず武蔵川は、情熱的に直接交渉に赴きました。が・・もちろん失敗。それならばと、戦前から相撲協会が所有する蔵前の土地に目を付けそこに新たな国技館を建設を決意します。しかし今度は、同じ相撲協会の役員達が建設資金に自分の年金があてられたら困ると猛反発。武蔵川は、自ら簿記や経理を学び、自宅を抵当に入れ、妻の着物を質屋に入れ、建設資金を書き集めました。

その一方で、プロ野球人気に押されがちな相撲人気を取り戻すべく興行を再開!国技館が無い環境で、ある時は屋根の無い屋外の土俵である時は闇市の片隅の土俵でとなりふりかまわない興行を続けたのです。さらに、伝統で選ばれた横綱達の成績が低迷を続けていることを相撲人気下落の一因とみなし相撲とは関係の無い有識者達により横綱選出というシステム「横綱審議委員会」を設置。これによりファンの期待に答える強い力士を送りだしていった。さらには三賞(殊勲・技能・敢闘)を新設し、一番にかける力士のやる気を高めた。これにより、より白熱した相撲をファンに見せられるようになりました。

国技館復活の資金集めも進み、着工の日取りが近づいていました。武蔵川は、相撲をより楽しめるようにしようと、ファンの熱き要望に答えようと考えます。それが「柱が邪魔で見えにくい」という苦情。とはいうものの、四本柱は神聖な土俵を守るものとして、江戸時代から受け継がれてきた伝統です。しかも、四本の柱それぞれに方角の神が宿り、四色の布飾りが祀られている。柱を無くせば「神」も失い、伝統も崩壊する・・

そのヒントは思いもよらぬところから与えられました。「柱を無くすなんて、屋根を上から吊るすつもりか?」保守的で武蔵川のやり口に反対を続けている親方の一言でした。そうか!吊るせばいいのか! 武蔵川は即座にその案を検討し、神が宿るべき柱の部分には「四色の房」を吊るし、方角の神も土俵に残すことに成功しました。

伝統を壊し斬新な改革を行う一方、しっかり伝統を守る。武蔵川の情熱は保守派の心も動かし、敗戦から9年後の昭和29年。ついに悲願の「蔵前国技館」が落成しました。

 

 

メイクの未来を切り拓いた男 植村 秀

第107回で「植村 秀 物語」を放映

昭和24年、今回の主人公 植村秀 氏は喜劇役者を目指していました。人を喜ばせることが好きだった植村ですが、肺結核に倒れてしまいます。24歳の時でした。5年にもおよぶ闘病生活で体力は衰え、役者への道を諦めることになりました。役者がダメならばと、舞台に関わる仕事の中でも体の負担の少ない美容の道に目をつけました。当時、美容は女性の仕事と考えられていた為、男性である植村は奇異な目で見られましが1955年チャンスが訪れました。日米合作映画でメイクの手伝いをしていた植村がハリウッドに呼ばれメイクアップ・アーティストの助手として働くことになったのです。見よう見まねでメイクの技術を身につけ、すっかりこの仕事の虜になってしまいました。

ハリウッド女優の素肌の美しさに植村は驚いていました。その秘密はメイク落とす時のオイルにあったのです。当時、メイク落としはクリームを使って拭き取る物が主流。でも、毎日ゴシゴシ拭き取っていては肌荒れが酷くなります。その荒れた肌を隠そうとメイクはさらに厚くなっていく・・ハリウッド女優はオイルを使うことで、この悪循環を防いでいたのです。メイクの基本は、その落とし方にある。美しい肌があってこそメイクアップは生きるんだ。と植村は気付きました。

1965年、植村は日本人初のメイクアップ・アーティストとして帰国しました。時は、高度経済成長期。日本の女性達は表面的な美しさだけを求めて化粧品を塗りたくっていました。素肌の健康を考えていなかったので肌荒れも多かった。植村はハリウッドから持ち帰ったオイルを周囲のモデルや美容師に薦めメイク落としの重要性を力説しました。オイルを使えば、水では落ちにくい化粧品や皮脂を浮かび上がらせます。それを水ですすげば、汗やホコリも一緒に洗い流せる。しかも、ゴシゴシと拭き取る必要もないから肌荒れしにくい。と良いことづくめです。

ところが、化粧はよく落ちるけれど肌が乾燥する。という苦情が殺到!きめの細かい日本人の肌には海外製のオイルが合わず、肌に必要な油分まで落としてしまうのです。肌に潤いを残すようなオイルを作ろう!植村は決意しました。

自宅に研究室を作り開発を始めました。数百種類あるオイルを色々組み合わせては、顔を洗って試してみる。そんな作業を毎日繰り返していると、あることに気付きます。手にサラサラと感じるオイルは、洗顔したあと乾燥しやすい。その一方、マッタリと感じるオイルは、しっとりとして乾燥しにくい。この両方の特徴を持つオイルを組み合わせれば、汚れを落としつつ潤いを保てるはずだ。

どうすればその組み合わせになるのか、ひたすら試すしかありませんでした。そして辿りついたのが、デリケートな肌にも優しい植物性オイルの組み合わせでした。コーン、べに花、ホホバなどを配合した理想のオイルが完成したのです。しかし、もう一つ問題がありました。それまでクリームでメイクを落としてきた日本女性は「こんな天ぷら油みたいな物で顔なんか洗えないわ」と口を揃えたのです。植村はそんな言葉にはくじけず、1983年表参道に店を開きました。そこで、商品を無料で自由に試し、気に入ったら買ってもらうという売り方にしました。

今でこそお馴染みになっているテスター方式は、実は植村のアイディア。この方法は、世界で初めての試みでしたが大成功!植村のクレンジングオイルは口コミでまたたく間に女性達に広がっていきました。

厚く濃くメイクすることで美しくなるのではなく、メイクを落とすことにこそ、美しさの原点がある。植村は女性達の意識を変えました。日本だけではなく、今や植村の店は18ヶ国にあり各国の女性達に愛されています。昨年12月、79歳でこの世を去った時には、世界中がその死を悼みました。

 


ターンテーブルの未来を切り拓いた男 小幡 修一

第108回で「小幡 修一 物語」を放映

1970年、ステレオシステムに人気の火が付き、多くのメーカーが高性能プレーヤーを発売しました。その当時、松下電器の高級ステレオブランドTechnicsでターンテーブルの開発に取り組んでいたのが今回の主人公 小幡修一氏です。

仕事に厳しく妥協をしない小幡は、画期的なターンテーブルを作りだしました。従来のターンテーブルは、モーターの動力をベルトで回転台に伝える仕組みでした。しかしこの仕組みでは、ベルトがへたってくると僅かにレコードの回転にムラが出るという欠点がありました。僅かなムラも許せなかった小幡が作り出したのがベルトを使わず直接回転台を回す「ダイレクトドライブ方式」です。これは、スイッチONから僅か0.7秒で安定した回転速度に到達する驚異的な性能を備えていました。だけど、この製品は思ったより売れませんでした。高性能な為の高価格と当時のニーズに合っていなかったことが原因です。

それから時は過ぎ、5年後の1975年。小幡の作ったターンテーブルがアメリカで爆発的人気ということを耳にします。その場所は、ディスコ。日本ではまだディスコブームに火がつく前です。小幡は現地アメリカのディスコへ視察に行きました。

そこで小幡が目にしたものは、ターンテーブルを直接手でいじくるDJ達でした。ミキサーを使いレコードを擦るスクラッチでリズムを刻む、そうHIP HOPです。この音楽は、小幡の作り出した高性能があってこそ出来るものだったのです。スクラッチしても手を離せば0.7秒でちゃんとしたサウンドが立ち上がる。DJ達は、まるで楽器のようにターンテーブルを扱っていました。高性能な物を作っても日本国内では売れなかった現実。ユーザーの気持ちを考えていなかったことに気付きました。

「良いものを作るのは技術者だけじゃない使う人も一緒になって創っていくんだ」小幡はDJに向けた新たなターンテーブルを作ろうと決意します。全米のディスコを渡り歩き、DJに使い勝手を聞いて次々と改良を加えていきました。回転速度を変えるピッチコントローラー、小さいつまみだった物を大型に変え頻繁に行うスクラッチをやりやすくする為に回転台の傾斜角度を緩やかにしました。さらにレコード針を照らす小型ライトを付け薄暗いディスコでもレコードの溝が見えるようにしました。改良は順調に進みましたが、やっかいな問題が浮上しました。重低音による振動です。重低音で起こる振動によって針が動き雑音の原因となってしまうのです。

悩む小幡の頭に浮かんだ物は、以前立ち寄ったディスコで見た光景。ゴムチューブでターンテーブルを宙に浮かせ振動を防いでいたのです。ゴムなら振動を吸収出来る!これをヒントに、本体をゴムで作ることを決意します。ゴムが硬くては吸収しないし、柔らかいと余計に振動してします。金属が当たり前だったターンテーブルに合うゴムを探すのは苦難の道のりでした。ゴムメーカーとも協力し、ようやく辿りついたのは車のタイヤの硬さに近いゴムでした。そのゴムでターンテーブルの台座を作り直し、本体の足にもスプリングを入れ振動対策を施しました。そして実験、スピーカーの目の前に置いてもビクとも震えませんでした。

1979年。満を持して送り出した改良モデルは、瞬く間に世界中のDJ達を虜にしました。このモデルは、絶えずプロのDJ達の意見に耳を傾けながら、マイナーチェンジを重ね続けています。今では、CDでもスクラッチが出来るようになったのです。

 


日本の芝の未来を切り拓いた男 松本 栄一

第109回で「松本 栄一 物語」を放映

サッカー日韓ワールドカップが行われた時、日本の競技場の芝は世界のプレイヤーに大絶賛されました。しかし、1980年代の日本の競技場は酷いものだったのです。土はドロドロ、芝はボロボロで世界中からバカにされていました。そんな日本の競技場の芝を作り替えた人が松本栄一氏です。

松本は、1989年。埼玉県浦和市の公園緑地課に配属された新人職員でした。公園にある芝生には「芝生に入らないで下さい」の看板子供達も走り回れない芝生・・ 松本は疑問に思っていました。そんな松本にいきなり転機が訪れます。4年後に控えたJリーグ開幕に向けて地元スタジアムの改修が決定され、その芝生の整備を任されたのです。なんの知識もない松本は、芝生について1から調べあげました。

芝と一言で言っても2000種類もあります。当時、日本のサッカー場では、病気に強く暑さに負けない日本芝が使われていました。しかし、寒くなると枯れてしまって茶色になります。冬のグランドは一面茶色が当たり前でした。一方ヨーロッパで使われているのは西洋芝、鮮やかな緑色で寒くても枯れません。葉がきめ細かくて立ち上がっているのも特徴。しっかり蹴らないとボールが芝生に負けてしまうので、パワーと正確な技術が養われます。この芝の違いが日本とヨーロッパのサッカーレベルの違いを生んだと言われていました。松本は西洋芝に目をつけ、この芝で競技場を作ろうと考えますが西洋芝は、暑くてジメジメした気候だと病気で死んでしまい日本の気候に合っていません。日本の競技場で西洋芝を使うなんて夢のような話でした。

暑くてジメジメした日本でも西洋芝を維持している場所はないのか・・一ヶ所だけありました。ゴルフ場のグリーンです。ゴルフ場では芝を守る為に細心の注意を払っています。グリーンの上ではそ~っと歩くこと。そこまでの注意をしてどうにか夏を乗り越えられるのです。グリーンのようなデリケートな芝では、とてもサッカーなんて出来ません。夏の暑さにも耐え、しかも丈夫な西洋芝を目指して、松本は育て方を研究します。
砂の質や、水の量、湿度など、ありとあらゆることを試しました。しかし、根が弱く簡単に抜けてしまう芝しか育ちませんでした。芝を研究し悪戦苦闘を続けているうちに3年という月日が流れていきました。

ある日、松本はふと気付きます。それは根です。品種によって根の生え方が違っていることに気付いたのです。ある品種は、根が縦にまっすぐ伸びて生えている。別の品種の根は横に向かって生えている。この縦・横に生える根が網目のように絡みあえばスパイクにも耐える丈夫な芝になるかもしれない。

松本は世界中の芝2000種類の根を徹底的に調べ、あらゆる組み合わせでテスト栽培を繰り返しました。そして、縦に伸びるペレニアルライグラス、トールフェスクという品種と横に伸びるケンタッキーブルーグラスという品種、この3種の組み合わせが最強だと導きだしました。さらに松本は、選手がより安全にプレイできるようにゴルフ場の農薬ではなく、漢方薬の絞り粕を使う方法をあみ出しました。こうしてついに納得の芝、世界に誇れる競技場が完成しました。

1993年5月。Jリーグが開幕、サッカー界の注目を一際集めたのは、松本が手掛けた駒場スタジアムの芝でした。激しいプレイも受け止める美しい西洋芝、ジーコやリトバルスキーも大絶賛したそうです。その後、各地のスタジアムで施設員を勤めた松本は「芝の神様」と呼ばれワールドカップでも芝のアドバイザーに任命されました。松本氏は今、幼稚園や小学校の校庭を芝生にするプロジェクトに乗り出しているそうです。

 

 

ラーメンの未来を切り拓いた男達 大宮守人 西山孝之

第110回で「味噌ラーメン誕生秘話」を放映

博多の豚骨ラーメンや山形の冷やしラーメンなど、ご当地ラーメンは色々あります。そんなご当地ラーメンの元祖とも言える札幌味噌ラーメンを作り出した男達の話。

昭和26年、札幌でラーメン屋「味の三平」を営んでいた大宮守人。その当時の北海道は、多くの企業の支社が次々と設立されて、単身赴任の人で賑わっていました。単身赴任者におふくろの味を食べさせたいと思った大宮は、豚汁をサービスで提供していました。そんな中1人のお客が言った言葉「ねぇ大将 豚汁に麺入れてよ・・」これが味噌ラーメンが生まれるキッカケとなったのです。

当時のラーメンといえば、スープは醤油味か塩味で、麺は柔らかい物が当たり前でした。日本の文化に味噌汁は欠かせない、味噌味のラーメンはきっと喜ばれると大宮は思いました。まずは味噌選び、数多くある味噌の中から生まれ故郷の新潟高田の白味噌を選びました。これをベースに、にんにく、しょうが、焼豚のタレを加え、鶏と豚骨でとったスープで割る。こうして大宮のラーメン用の味噌スープは完成しました。そこに入れる具は、単身赴任者の栄養を気遣ってラードでたまねぎ・もやし・挽肉を炒め、そこに、にんにくを少々。栄養満点の具も出来上がりました。

しかし、問題は麺でした。従来の麺では、味の強い味噌スープに負けてしまうのです。このスープに負けないモチモチとして歯ごたえのあるコシの強い麺が必要だ・・大宮は店に出入りしていた製麺業者の西山孝之に新しい麺作りを依頼しました。

西山が早速作り上げたのは、うどんのように太い麺。確かに歯ごたえは十分ですが、忙しい客の多い大宮の店に茹で時間のかかる太い麺は不向きでした。西山は、太すぎずコシの強い面を作る為に、あらゆる小麦粉を試し試行錯誤の結果グルテンを大量に含む小麦の外側の部分だけで出来たある種類の小麦粉にたどり着きました。さらにあるハプニングにより、よりコシの強い麺になりました。打ってから時間の経った麺を、誤って大宮が茹でて食べてしまったのです。これが中々美味い。今でこそ常識となっている麺の「熟成」を偶然見つけ出したのです。

新しいスープと具、それにあった腰の強い麺。ついに大宮の味噌ラーメンが完成!と、思われましたが・・・ 麺にスープが絡まない!ラードで具を炒めている為、このラーメンは中々冷めません。寒い北海道にはもってこいです。でも、これが仇となり麺をフーフーと冷ましている間にスープが流れ落ちて味気がなくなってしまう。

スープがよく絡む麺・・西山は悩みに悩んで辿りついたのは完成した麺を手で揉んで縮れさせるという方法でした。こうすれば麺の縮れに絡みつき、いつまでも流れ落ちない。ついに、ついに「みそラーメン」が完成しました!2人が作ったみそラーメンは、瞬く間に札幌中に広まり、その評判は全国に広まりました。これをキッカケにご当地ラーメンの大ブームが起こったのです。大宮と西山の2人の努力が、新しい食文化を生み出したのでした。

 

 

【編集後記】当時を振り返り

未来創造堂の番組後半に放映された「偉人のVTR」ほ、番組放送当時にブログにまとめたものです。まとめたと言ってもVTRのナレーションを文字に起こした感じですが、偉人たちのコダワリやひらめきはこれでも伝わると思います。VTRが見れるともっと良いのですが、Youtubeにある(おそらく無断アップロード)映像はわずかしかありません。

 

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