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未来創造堂 第141回~第150回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第141回~第150回で放映された偉人をまとめました

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プラモデルの未来を切り拓いた男 田宮 俊作

第141回で「田宮 俊作 物語」を放映

世界初のプラモデルが発売されたのはイギリス、1936年の事です。戦後、日本のメーカーもプラモデルを発売。そのメーカーの1つTAMIYAの2代目社長が田宮俊作です。昭和36年、TAMIYAは戦車や車のプラモデルのメーカーとして子供達に人気がありました。当時のプラモデルは、現在の物に比べるとパーツがとても少なくシンプル
上下に分かれた車体を合わせ、タイヤを4つ付ければあっと言う間に完成!手早く作って完成品で遊ぶ、当時のプラモデルはそういう子供のおもちゃでした。

田宮が日本のプラモデルの未来を変えるキッカケとなったのが世界進出、当時の日本のプラモデルは海外の劣悪なサルマネと言われていたのです。田宮はドイツで開かれるトイショーに出展し世界を驚かせよう考えますした。新作プラモデルのモチーフとして選んだのはF1マシーン!1965年メキシコグランプリでホンダのマシーンが優勝、国産車初の偉業でした。

ここから新作プラモデルの製作がスタート。レースに向け空輸の準備に入っていたマシーンを羽田空港に押しかけて取材し、ありとあらゆる部分の写真を100枚以上撮り、F1マシーンのカッコ良さを再現しようとしました。

ホンダのエンジニアに試作品を見せ、プロの意見も取り入れました。そして、まさにF1マシーンその物、本物ソックリのプラモデルが完成しました。ところが・・ 田宮が感じたのは達成感ではなく、物足りなさでした。見た目は完璧な物が出来たけど、それで世界に通用するのか・・田宮は見た目だけでなく、「作る喜び」を再現しようと考えます。作ってから楽しむものだったプラモデル を 作ることを楽しむものへ!

車の組み立て工程を楽しむ為に、完成すると見えなくなる裏の裏まで忠実に再現。パーツが増えコストがかかり、難しくて子供が作れなくなるという声も出る中、田宮は見えなくなる部分も徹底的に再現していきました。そのコダワリは説明書にもありました。部品の名前を全て本物と同じように書いたのです。

昭和42年11月 「HONDA F-1 12001」が発売。パーツが増えたおかげで、価格は1200円。他のプラモデルが2~300円の時代に田宮は大きな賭けに出ました。結果は、10000台が発売と同時に即完売!新たなプラモデルの楽しみは、まず大人のモーターファンに伝わり、子供達へと広がりました。翌年ドイツのトイフェアに出展。サルマネと言われた評価が一転して大絶賛されました。世界のメーカーにも認められた田宮のプラモデルは、現在60カ国の国で販売されています。

 

筆ペンの未来を切り拓いた男 綿谷  一行

第142回で「綿谷  一行物語」を放映

筆ペンの産みの親綿谷一行は、墨作りの老舗「呉竹」で働いていました。GHQの影響で書道離れが進んでいた戦後、筆を上手く使いこなせない人が増加していました。このままでは、日本の伝統文化が廃れてしまうと嘆き、誰もが手軽に筆文字の書けるペンが作れないものか。綿谷の研究は始まりました。

綿谷は、「書道家 花田峰堂」の元に訪れ、意見を仰ぎました。花田の意見は、ペンで筆文字を書こうとするのは無茶だ。というもの・・筆圧に応じて太さの変えられる筆をペンで再現するのは無理と考えたからです。しかし、綿谷は諦めませんでした。

「守るべきものは、筆文字の文化であって、筆ではない。」最大の課題は、筆圧ひとつで文字を太くも細くも書けるペン先を作ること。ペン先の専門家を呼び、ありとあらゆる素材を試し2年の歳月をかけました。太くも細くもなる柔らかさを備えた素材・・ 辿り着いたのはナイロン繊維でした。しかし、綿谷はため息を付きます。

ナイロン繊維ならしなやかな上に保水力もありますが、それでは筆と全く同じ。そもそも筆が苦手な人の為にペンを作ろうとしていたのに、筆と同じでは意味がないのです。長すぎるペン先が最大の原因でした、ペン先を短くすれば手軽に筆文字が書けるはずしかし、ペン先を短くすると保水力が減り文字がすぐにかすれてしまう。

保水力を保ちつつ、ペン先を短くするにはどうすれば・・ 綿谷が思いついた方法は、「ねじること」でした。繊維をねじれば密度が高まり保水力がアップします、しかもペン先は短くなる。ペン先が短くなったことで扱いやすさが上がり、手軽に筆文字の書けるペンが出来たのでした。

無事完成した筆ペンですが、もう1つ問題がありました。それは価格。当時のサインペンが50円くらいだったのに対し、筆ペンは200円じゃないと採算が取れなかったのです。綿谷は、再び花田峰堂の元を訪ねて、筆ペンを試してもらいました。すると花田は、200円でも必ず売れると太鼓判を押し、ロゴまで書いてくれたのです。

1973年 筆ぺん 発売。筆ぺんは、瞬く間に一家に一本と言われるほど普及しました。最新の24色の筆ぺんは海外のイラストレーターからも注目されパソコン全盛の今でも筆ぺんの売れ行きは伸び続けています。

 

除雪の未来を切り拓いた男 桂木 公平

第143回で「桂木公平物語」を放映

戦後、山形では井戸を掘り農業用水として利用していました。その井戸掘りのスペシャリストが桂木公平。桂木は山並みや川の流れを見るだけで井戸を掘るポイントが分かる職人でした。

桂木の運命を変えたのは、昭和38年のサンパチ豪雪。雪かきしか積雪対策がない当時、大雪が雪国を襲い大きな被害をもたらしました。これを受け、新たな積雪対策として生まれたのが散水システムです。道路に水を撒き雪を溶かす、水道水ではコストがかかりすぎるので地下水が利用されました。

地下水なら俺の出番と奮起した桂木は、あちこちに井戸を掘りました。ところが数年後、各地で地盤沈下が深刻な問題になったのです。汲み上げられた地下水が、アスファルトの上を流れ全て下水へ流れる為に地下水は減る一方。使った水を元へ戻さないと無くなってしまう。桂木は撒いた水をもう一度集め、地下に戻す方法を考えました。しかし、一度アスファルトを流れた水は汚れていて、そのまま戻せば地下水汚染になってしまう。かといって浄化していたのではコストがかかりすぎてしまう。桂木は悩みました。

そんな時、桂木に新しい発想が浮かんだのです。積もった雪を溶かすのではなく、積もらないようにすれば・・・初めから地面を暖かくしておけば、雪は降ったそばから溶けていく床暖房のような仕組みを地面に施せばいいと考えたのです。電熱線で温めるのではなく、地下水を利用して地面を温める地下水を知り尽くした桂木ならではの発想でした。地下水の温度は、その土地の年間平均気温とほぼ同じなのです。山形の平均気温は13度、地下水の温度は真冬でもほぼ同じ数値です。この温かさを利用しようと考えたのです。

アスファルトの下にパイプを埋め込みそこに地下水を流し、また地下へ戻す。地下水を路面に寄り道させて、その温度で路面を温めようという考えこれなら地下水が汚れることもありません。桂木は早速、駐車場の片隅の空き地にパイプを埋め込み実験を開始しました。気温も路面の温度も氷点下になった日に、パイプに地下水を通して測定路面の温度は、たったの1℃でした。1℃では雪は溶かせないと周囲は諦めましたが、桂木は1℃あれば十分溶けると判断しました。

実際、その空き地の実験は成功、雪は積もらなかったのです。次は広い道路に工事させて貰おうと、山形市役所に頼んだものの聞く耳を持ってくれません。なんと桂木は、全額自己負担を条件に工事の許可を貰ったのです。昭和56年11月、わずか80mの道路に「無散水消雪システム」の工事が施されました。効率よく温める為にパイプの間隔を20㎝にし、水が冷え過ぎないようにパイプを枝分かれさせました。

その年の12月13日に雪が降り、このシステムの威力が証明されました。この結果を見て、山形市役所はただちに桂木のシステムを導入。それ以来、このシステムの威力は日本全国で発揮されています。地下水を循環させて雪を溶かす、水一適無駄にしない。そんなクリーンな技術は、世界10カ国で特許を取得しています。

 

 

 

ツナ缶の未来を切り拓いた男 村上 芳雄

第144回で「村上芳雄物語」を放映

日本で初めて缶詰が作られたのは明治4年(1871年)のことです。長崎で生まれたオイルサーディンが初めて作られ、その後鯖の煮付け等の缶詰も作られました。缶詰の多くは軍用の保存食として使われ、とても高価な物だったそうです。時代は流れて、昭和初期。アメリカでツナ缶が人気となり注目されるようになりました。日本でもツナ缶を作り外貨を獲得しようと、日本各地でツナ缶の生産が始まりました。しかし、日本のツナ缶の評価は最悪。悪臭を放ち通関も拒絶するほどでした。そんな中、アメリカを驚かせたツナ缶を作った男が村上芳雄です。

静岡県清水港で水産技師をしていた村上。清水港はツナ缶の材料となるビンチョウマグロの水揚げが多かった事からアメリカを驚かせるようなツナ缶を作ってやろうと考えたのでした。当時の日本製のツナ缶の不評の理由は悪臭。缶詰の中身の劣化を防ぐことが、村上の最大の課題となりました。劣化を防ぐには良い油を使う必要がありました。当時は油の精製技術も低く良い油が手に入りにくかったのです。

村上はツナ缶に適した油を探し回りました。妥協しない村上が辿り着いたのは「麺実油」綿花の趣旨から搾り出す油で、関西の高級料亭で使われている最高級の油です。缶詰に使うには、麺実油はコストが高すぎでしたが、村上は考えを変えませんでした。さらに、ツナの形状を「ソリッド」という形に決めました。当時のアメリカの缶詰は身をほぐした「フレーク」、ソリッドなら見た目もうけると考えたのです。

昭和4年5月、村上のツナ缶の評判を聞きつけた商社がアメリカの輸出契約を取り付けました。その数は5000個、しかも期限は1週間という注文でしたが地元の水産高校の高校生の力を借り、5000個の缶詰の輸出は成功!アメリカで高評価を受けました。これをキッカケにツナ缶の輸出量は激増し、日本経済の発展に貢献しました。

昭和4年12月 清水食品が誕生。地元では続々と缶詰工場が誕生しました。今日まで続く有名メーカーのほとんどが清水から生まれました。地元、焼津水産高校では、今でもツナ缶作りの実習が行われているそうです。

 

 

皮剥きの未来を切り拓いた男 小林 二郎

第145回で「小林二郎 物語」を放映

当時のブログには開発秘話記録しておらず・・。以下ネットの情報

キッチンジローの創業者である小林二郎さんは、世界初の玉ねぎ皮剥き機「玉ジロー」を開発しました。

彼のレストランでは、ハンバーグ、コロッケ、カレーなどの洋食メニューに欠かせない玉ねぎの皮むきが一日に2000個必要でした。しかし、玉ねぎの皮を手で剥く作業は、臭いが強く、手が荒れ、目がしみるため、従業員からの不満が多く、辞めてしまう人もいました。

そこで小林さんは、玉ねぎの皮を自動で剥く機械を作ることを決意しました。根を取るのに3年、へたを切るのに5年、層になっている皮を剥ぐのに9年の歳月をかけて、玉ねぎをセットしボタンを押すだけで、根・ヘタ取りと皮剥きを1台で同時に行う機械「玉ジロー」が完成しました。1個に要する時間は3.9秒で、1時間に約900個もの玉ねぎを処理することができます。

このように、小林二郎さんは、飲食業界の課題を解決するために、独自の機械を開発し、皮剥きの未来を切り開いたと言えるでしょう。

 

文字認識の未来を切り拓いた男 山内 俊史

第146回で「山内 俊史物語」を放映

当時のブログには開発秘話記録しておらず・・。以下ネットの情報

山内俊史さんが開発した「文字読取装置」については、特許情報が存在します。この装置は、帳票あるいは文書全体の文字情報を利用し、個々の文字認識では読取困難な文字に対しても読取精度の向上を実現することを目的としています。

具体的な構成としては、認識辞書部には1つの文字カテゴリーについて複数のサブカテゴリー特徴ベクトルが格納されています。

 

手話の未来を切り拓いた男 高橋 潔

第147回で「高橋 潔 物語」を放映

当時のブログには開発秘話記録しておらず・・。以下ネットの情報

高橋潔(たかはし きよし、1887年 - 1958年1月9日)は、日本の教育者で、大阪市立聾学校の校長を務めました¹。彼は口話法全盛の時代に手話法の孤塁を守り、後の日本のろう者社会およびろう教育に大きな影響を与えました。

彼は、ろう者にとっての手話の重要性をいち早く認識し、口話法に向く者には口話法を、手話法に向く者には手話法を用いる「適性教育」を主張しました。この考え方は、当時の教育界で口話法を推進する動きに対抗する形で展開されました。

また、高橋潔は手話歌の創作にも取り組みました。彼が作った手話歌は、ろう者の間で広く使われ、手話の普及に大いに貢献しました。

彼の生涯は、ろう者社会から絶大な尊敬を受け、その業績は『わが指のオーケストラ』として漫画にもなりました。

 

 

フリーズドライの未来を切り拓いた男 天野 肇

第148回で「天野 肇 物語」を放映

当時のブログには開発秘話記録しておらず・・。以下ネットの情報

天野肇(あまの はじめ)さんは、日本の実業家で、元天野実業の取締役会長でした。彼はフリーズドライ技術を活用し、世界初のインスタントラーメンの具材を開発しました。

天野実業は元々、粉末調味料の製造を主な事業としていました。その中で、真空凍結乾燥機を設置したことにより、大手食品メーカーから技術力への注目が高まり、日清製粉からインスタントラーメンの具を共同開発しようと持ちかけられました。当時、天野肇さんは常務取締役であり、開発に取り組み、世界初のインスタントラーメンの具(フリーズドライ)を完成させることができました。

その後、天野肇さんは自社でオリジナルの商品を作ることを考え、フリーズドライの味噌汁の開発に着手しました。しかし、味噌汁のみそは、水に溶けにくく、沈殿しやすいという特徴を持っていて、フリーズドライの味噌汁は他社から発売されていたが、お湯に溶けにくく評判が悪かった。そんな中、天野肇さんは試行錯誤を重ね、お湯を注いだときにみそが素早く溶け、具材がフワッと広がるようなフリーズドライの味噌汁の開発に成功しました。以上のように、天野肇さんはフリーズドライ技術を活用し、新たな食品の開発に挑戦し、その未来を切り開いたと言えるでしょう。

 

 

電気カミソリの未来を切り拓いた男 綿谷 秀次

第149回で「綿谷 秀次 物語」を放映

当時のブログには開発秘話記録しておらず・・。以下ネットの情報

綿谷秀次さんは、Panasonicの一員として電気カミソリの開発に携わりました。彼の貢献により、電気カミソリの進化と普及が進み、現代のシェービング体験が大きく向上しました。

電気カミソリをどのように開発・改良したかという情報はネット上にはありませんでした。そこが一番知りたいところですが残念です。

 


第150回は、150回を記念して「究極の親子丼プロジェクト」を放映


【編集後記】当時を振り返り

当時のブログを見ると、第146回~151回の偉人の開発秘話を記事にしていませんでした。この頃は登場したゲストの話のほうがウケていて、偉人の話ではあまりアクセスされないという状況があって、私のモチベーションが下がっていたのだろうと推測します。幸い「何をした人なのか」と「その人のフルネーム」は記事にしてあったので、その2つから、その人の功績は調べる事が出来ました。