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未来創造堂 第121回~第130回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第121回~第130回で放映された偉人をまとめました。

四字熟語「未来創造」額付き書道色紙/受注後直筆(千言堂)V5605

バレーボールの未来を切り拓いた男 仲田 國市

第121回で「仲田國市物語」を放映

1964年 東京オリンピック この大会からバレーボールは正式種目となりました。
女子バレー日本代表は「東洋の魔女」と呼ばれ大活躍!この時に使用されていたボールは、開催国ということもあり日本製のボールが使われました。日本メーカー9社のボールが「ノーマーク」で使われたそうです。その1つ「ミカサ(旧・明星ゴム工業)」は広島でゴム製品やドッチボールを作る会社でした。次のメキシコオリンピックでも我が社のボールをと思っていたのですがその年から、ボールのメーカーは一社の提供と決められ、世界中のメーカーが殺到ミカサのボールはあえなく、不採用になってしましました。この時、痛恨の思いを噛み締めた男が、仲田國市です。

バレーの歴史は、それほど長いものではなく1895年、アメリカのYMCAで考案。当初はバスケットボールを使っていたそうです。その後、ゴムのチューブを使ったボールのひな型が誕生。日本に入ってきたのは、大正の初め、1915年頃です。

公式ボールの基準として定められているのは、3点だけ重さ260~280g 円周65~67㎝ ボール内部の気圧294~319hPaです。ボールの良し悪しを決めるのはコントロール。名セッターと言われた猫田選手に意見を求めたところ

「コントロールしやすくするには、完全な球体じゃなければいけない」という答え。その当時のバレーボールは、ゴムチューブに布を張り、牛皮で覆うという方法で作られていました。この方法では、布が重なる部分がデコボコしてしまい。完全な球体にならないのです。布張り式では出来なかった、完全な球体のボールを作る為、仲田は改めて研究を始めました。

野球やゴルフのボールは、何重にも糸が巻かれて作られていることを知り真ん丸のボールを作るヒントを得ました。仲田は、早速ゴムチューブに糸を巻き付け、完全な球体のボールを作りました。そのボールを選手に試してもらったところ・・・「痛い」ボールは確かに丸くなったのですが、素手で扱うには硬すぎたのです。考えてみれば当然の事・・・糸巻き式のボールを使う競技は、道具でボールを打つものばかりです。だから、素手で扱うバレーボールには糸巻き式は硬すぎて不向きだったのです。

ボールを真ん丸にするのはクリアできた、後は素手でも扱えるように柔らかくすること。巻きつける糸の素材、太さ、長さ、巻き方など、ありとあらゆるパターンを試しました。

そして、3年後。仲田の辿り着いた方法は極細のナイロン糸を、強すぎず弱すぎず適度な余裕を持って何重にも巻きつけていく方法でした。この方法によって、ボールに弾力性を持たせることに成功したのです。現在のボールは、10本の糸をより合わせた0.05mmの糸が2000m分ランダムに巻かれています。こうすることで、適度な柔らかさを実現し、なおかつ誤差1㎜以下の真ん丸さを保っています。

1980年、モスクワオリンピック。日本はボイコットしましたが・・ミカサのボールはオリンピック公式ボールとして認定されました。その後、8大会連続でバレーボールの公式ボールと認定。今、開催されている北京オリンピックの公式ボールも、もちろんミカサのボールです。

 

 

 

西洋料理の未来を切り拓いた男 村上 信夫

第122回で「村上信夫物語」を放映

フランスの美食ガイド「ミシュラン」東京版、日本のフレンチレストランがパリに次ぐ合計56の星を獲得しています。今や世界が認める日本のフレンチ、戦後の日本にフラン主料理を広めた伝説のシェフが村上信夫氏です。

昭和31年、村上はフランス料理の修業をする為パリに渡りました。当時35歳。リッツは、フランス料理を芸術の域にまで高めたオーギュスト・エスコフィエが料理長を務めた名門。日本の洋食とは違う本物の西洋料理を学び、ついに名門リッツに辿り付いたのでした。当時の総料理長、アンリ・リジュールの元で修行をした村上は、昭和33年に帰国。帰国後、帝国ホテル新館の料理長に迎えいれられました。

敗戦から10年余、東京で外国人を呼べるホテルは、帝国ホテルぐらいでした。就任後すぐに問題が持ち上がりました。トリフュやフォアグラといったフランス料理に欠かせない材料が手に入らなかったのです。そこで村上は、トリフュの代わりに椎茸を使いフォアグラの代わりに鳥レバーをよく濾してバターとブランデーを加え、本物そっくりの味を作り出すことに成功しました。

時同じくした、村上に新たな仕事舞い込みました。「日本発の食べ放題レストランを作ってくれ」と経営陣に頼まれたのです。村上がその手本としたのが、北欧の伝統料理スモーガスボード魚の燻製や酢漬けといった冷たい料理をテーブルに並べて好きなだけ食べるスタイルです。作った物を出しっぱなしにしておくスタイルに反発する料理人もいる中、村上にさらなる問題が持ち上がります。

メニューのメインとして考えていたスモークサーモンが硬くてパサパサの粗悪品しか手に入らなかったのです。スモークの技術が未熟だった当時の日本には、村上の求めるスモークサーモンはありませんでした。無いなら作るしかない!と、本場で習った技術を用いて自分でスモークサーモンを作ったのです。

しかし、レシピ通り作っても本場のスモークサーモンのように作れませんでした。悩む村上に答えをくれたのは「トキシラズ」という鮭でした。季節はずれに獲れるこの鮭は、秋鮭と比べると油ののりが抜群でこの油の量が柔らかさを決める秘訣だったのです。

日本人が食べているスモークサーモンの歴史はここから始まり、バイキングで世に広まりました。スモークサーモンが完成し、お客様に出す料理が着々と揃って行きました。
しかし、村上は何か物足りないと考えていました。本場の料理を忠実に作ったものの、全て冷たい物ばかり・・・温かい食べ物が無ければ日本人は満足しない!

村上はビーフシチュー等をメニューに加え、冷めないように湯煎に料理を盛りました。こうして本場のスモーガスボードを越える新たなバイキングメニューが完成。今やお馴染みの、食べ放題のバイキングスタイルの歴史はここから始まりました。

 

 

 

ペンギン飼育の未来を切り拓いた男 古賀 忠道

第123回で「古賀 忠道物語」を放映

日本に初めてペンギンが来たのは昭和26年の事。その当時、上野動物園の園長を務めていたのが、古賀忠道です。南氷洋の捕鯨船の船員が、ペンギンを連れて帰ったことがペンギン飼育の始まり。極地に住むペンギン、当時は世界でも飼育例がなく、その方法も確立されていませんでした。日本に最初に来たのは「ヒゲペンギン」昭和26年4月でした。日本の気候はペンギンには暑いはず、急ピッチに水槽を改造して、簡易冷房室を作りました。手探りで飼育を続け、ヒゲペンギンはなんとか暑い夏を乗り切ることが出来ました。

ところが・・・ 元気だったペンギンが急死してしまったのです。古賀はその原因を徹底的に調べました。その原因は、「アスペルギルス」というカビ。このカビがペンギンの呼吸器官を犯し、呼吸不全を引き起こしたのです。ペンギンの体内には、「気のう」と呼ばれる呼吸器官があります。水に潜る時にだけ使われる器官で、肺のようにいつも空気が出入りする器官ではありません。よどんだ状態になりやすい気のう内部は、カビが蔓延るにはもってこいの場所だったのです。南極は厳しい寒さの為細菌がいません。
無菌室のような場所で暮らしてきたヒゲペンギンにはカビに対する抵抗力が弱かったのです。

昭和29年。上野動物園に「コウテイペンギン」がやってきました。当時、世界中のどの動物園でも飼育に成功したことのないペンギンでした。やってきた2羽のペンギンは、「エドワード」「メリー」と名付けられ大切に育てられました。接する時は白衣を着て、専用の靴に履き替える事を徹底!全ては、ペンギンをカビから守る為です。しかし、努力も空しく、エドワードは2ヶ月でカビに命を奪われてしまいました。残されたメリーも容態が悪化、薬を飲ませてみても効果がみられません。懸命の治療を続ける古賀、職員が使っていた「水虫の薬」でひらめきます。

「オーレオスライシン」という抗生物質、水虫もカビと同じ細菌。水虫に効くのなら、ペンギンを苦しめているカビにも効果があるかもと思ったのです。古賀は薬の粉末を取り寄せ、アルコールに溶かし蒸気にして吸入させました。患部に直接あたれば、きっと効果があるに違いない。これが最後の手段と古賀はこの治療をメリーに施し続けました。半年ほどこの治療を続けた結果、メリーは無事回復!元気を取り戻しました。

古賀達は、世界で初めてペンギンの長期飼育に成功。この結果は、世界中の動物園に衝撃を与え「ペンギンの飼育なら上野」という国際的な評価をうけることになりました。今では、日本のペンギン飼育と研究の技術は、ペンギンの保護にも活かされ始めています。現在、日本のペンギンの飼育数は、およそ3300羽。その数は世界一です。

絵本「かわいそうな ぞう」

戦時中、混乱を避ける為に上野動物園では、止む無く多くの動物が毒殺されました。絵本にもなった有名なエピソードです。この当時の園長も古賀忠道でした。苦渋の命令を下すことになった園長、苦しく悲しいお話でしたね。

 

 

ナースの未来を切り拓いた男 澤登 達郎

第124回で「澤登 達郎物語」を放映

1971年、ナガイレーベン(旧 永井衣料)は、作業用白衣の製作・販売を手掛けていました。その社員だった澤登達郎は、納入先の病院でナース服の不満を知ります。真っ白なナース服を、綺麗に清潔に保つ為に洗濯代がかさんで困ってるとのこと。その管理をナース個人に任せている病院も多く、ナースに負担がかかっていました。そこで澤登は、手入れが簡単で清潔感が保てるナース服を作ろうと思い立ちました。

澤登は、当時の新素材、化学繊維に目を付けます。耐久性は木綿の4倍、洗濯しても乾きやすく皺になりにくい。アイロン掛けの手間も省ける理想的な素材でした。早速、試作品を作り、病院に持ち込みました。ところが・・・ その試作品は下着が透けて見えてしまったのです。試作品は失敗に終わりましたが、洗いっぱなしで良いという点は高評価を受けました。

欠点は下着が透けること・・・ここで澤登は違う方向に進んでしまいます。ナース服を改良せず、透けない為の下着スリップの製作に力を注ぎました。これでは洗濯物が増えてしまって本末転倒。却下されました。ナース服の改良に力を入れた澤登は、ナース服の織り方に凹凸を付けることで透けやすさを解決しました。出っ張った部分に光が当たった時に影になる部分が出来るので透けにくくなったのです。

お手入れ簡単、アイロン不要、下着も透けないナース服お手入れの面では完璧な服でしたが、機能面で多くの要望が寄せられました。腕回りがキツイ、腰にゆとりが欲しい、ナースの要望に答え、仕事のしやすい服を目指しました。ナースの仕事を観察し、体の動きを徹底的にチェック。美術大学のヌードモデルを呼んで、その動きを再現してもらい。皮膚の伸び縮みもチェックしました。この結果、服を作るパーツを細分化、直線的だったラインも体に沿った立体的なものになりました。それまでの動きづらく野暮ったい服から、機能的なデザインの服に生まれ変わったのです。

この服の完成は、ナースだけではなく病院の経営者も喜んだそうです。木綿の3倍の値段だけど、耐久性に優れている為長い目で見れば経済的だったからです。澤登のナース服は、またたく間に全国の病院で採用されていきました。現在では、韓国や東南アジアでも使われており、海外でも高く評価されています。

 

 

カメラの未来を切り拓いた男 更田 正彦

第125回で「更田 正彦物語」を放映

日本光学(現 ニコン)は戦時中、戦艦大和に搭載された「測距儀」の製作を手掛けた会社でした。「測距儀」とは、敵の船との距離を測るもので、50キロ先まで正確に測れたそうです。終戦後、会社は転換を迫られます。軍も戦艦ももう無い。築き上げた技術をどこに活かせばいいのか・・会社は、光学技術を転用出来るカメラの製作に乗り出しました。会社の未来を任され、そのチームを引っ張ったのが更田正彦です。

当時、世界をリードしていたのは、ローライ、コンタックス、ライカといったドイツ製のカメラでした。更田達は、その精巧なメカニズムを徹底的に研究しライカと同じタイプのカメラ、「ニコンS」シリーズを発表しました。このカメラの仕組みは、カメラ前面にレンズが取り付けられ、その脇に小さな窓がある。この窓を覗き、ピント合わせや構図を決めシャッターを切るというものでした。このタイプのカメラは、レンズと小窓に微妙なズレが生じてしまう弱点がありました。遠い景色なら問題ありませんが、被写体が近くなるとズレが大きくなってしまうのです。

更田は、ファインダーで見たままを写真に出来ないかと考えます。そこで目指したのが「一眼レフカメラ」の製作です。ところが・・ ライバルの光学メーカーが国産初の一眼レフカメラを発表。(アサヒフレックスⅠ型)一番に発表は出来なかったものの、当時の一眼レフは壊れやすく耐久性に問題がありました。

更田達のチームは、プロを納得させるだけの頑丈さと性能を目指し研究を続けました。
試行錯誤を続け、他メーカーには無いカメラが完成しつつありましたが更田には一点だけ納得のいかない部分がありました。それは、「シャッター」でした。レンズの捕らえた光を一瞬の開閉でフィルムに感光させる役シャッター、レンズとフィルムの間にあるシャッターは、普段は閉じている薄い幕です。光を通さないこのシャッター幕は、カメラ本体にコンパクトに巻き取られています。巻き込む事が可能な素材ということで、当時は布製の黒い幕が使われていました。でも、誤ってレンズを太陽に向けてしまうと穴が開くという難点があったのです。

更田は、布に変わる素材を探しました。燃えなくて丈夫で、しかも布のように巻き込むことの出来る素材。更田が辿り着いた素材は金属! それも高級素材のチタンだったのです。かくして、0.025㎜まで薄くしたチタン製シャッターが完成。もちろん世界初の試みです。太陽の光なんてへっちゃら!巻き込んでは開く15万回のシャッター開閉テストもクリアしたのです。

こうして、1959年6月「ニコンF」が誕生しました。他のメーカーが2万円台だったのに対し、ニコンFは6万円台。当時の価値にすると120万円相当の高級品だったそうです。高価にもかかわらず、どんな環境でも壊れない頑丈さが認められプロのカメラマン、特に戦場カメラマン達が絶大な信頼をよせました。豊富な交換レンズや連続撮影を可能にしたモータードライブなどどんな被写体をも逃さないシステムで、ニコンFはライバルを大きく引き離しました。ドイツの真似事と言われた日本カメラの地位を大きく引き上げたのでした。

 

 

 

ケーキの未来を切り拓いた男 迫田千万億

第126回で「迫田千万億物語」を放映

日本人パティシエが世界的に有名になり、今の日本はスィーツ大国となっています。でも、昔の日本人はケーキが大嫌いだったらしいのです。そんな日本人の意識を変えたケーキが「モンブラン」このモンブランを作り出した男が、迫田千万億です。

ケーキが日本に入ってきたのは、明治36年のことです。その当時は、日本に来た外国人が楽しむ為の食べ物で、日本人は殆ど口にしなかったそうです。昭和に入ってもそれは変わらず、特権階級の人だけが楽しむ食べ物だったようです。昭和8年、当時のケーキのレシピは西洋の物そのままでした。ケーキ職人だった迫田は、これでは日本人に受け入れられないと考え日本人の舌にあったケーキを作り出そうと考えます。

迫田は、日本の味、和菓子に目を向けました。日本人に好まれている和菓子、特に生の和菓子はしっとりとして柔らかいお菓子。一方、当時の洋菓子は硬くてパサパサしたものだったのです。和菓子のような、しっとりと柔らかい食感のケーキを作れば受け入れられるはずそこで注目したのが、日本人に好まれていた「カステラ」でした。

カステラは室町時代にポルトガルから伝わった食べ物。カステラの元となったビスコチョは非常食で、硬く乾パンのような物だったそうです。それが日本の風土の中で、しっとりと柔らかい菓子に変化したのです。

迫田は、土台となるスポンジケーキの代わりに、柔らかいカステラを使うことにしました。問題は上に何を乗せるか・・・迫田はあるデザートの事を思い出しました。クリスチャンの迫田は外国人の神父と共にスイスを訪れたことがあり、その時アルプスの最高峰モンブランの麓で食べたデザート。それは、クリームの上に栗のペーストを乗せたデザートでした。栗は日本人馴染みの食材、栗を上に乗せようと決めました。

迫田は、和菓子にならって栗を甘露煮にすると、それを裏ごししてペースト状にしました。カステラの上に生クリームを乗せ、その上に栗のペーストを細く絞り出して乗せました。こうして、迫田オリジナルのケーキが出来上がりました。しかし、食べてみると、栗のペーストが思ったより口にまとわりつきせっかくのカステラのふんわり感を台無しにしていました。この問題を解決すべく、もう一度和菓子の世界を見直しました。

そこで見つけたのが「おだまき」という道具です。この道具は、クリームの絞り器と似たような細工の出来る優れものでした。おだまきを使いペーストを絞り出すと、ペーストが立体的に重なり空気を多く含みます。これにより、しっとりふんわりとした食感が生み出されました。最後に、アルプスの万年雪に見立てたメレンゲをあしらい「モンブラン」が完成しました。

日本人による日本人のケーキは、こうして生まれました。迫田の功績は、それだけではありません。自分の店でモンブランを売るだけでなく、そのレシピを全国の洋菓子職人に伝えました。同じように日本で生まれたショートケーキと共に、迫田のモンブランは全国に広まりました。

 

折りたたみ式携帯の未来を切り拓いた男 久保田 直基

第127回で「久保田 直基物語」を放映

1993年頃の携帯電話は、肩から提げるタイプでレンタル制でした。翌年の1994年から端末のレンタル制が買い上げ制に移行、業界は大きな転機を迎えていました。今回の主人公、久保田直基は新潟のプリンター等の精密機械のバネを作る工場で働いていました。

「フタ付きの携帯電話は作れないかな」と思わぬ相談を受けた久保田求められたのは、フタがパカっと開き、スッと閉じる「蝶つがい」微妙な動きの蝶つがい、小さな携帯電話、複雑な構造では壊れやすくなってしまいます。久保田は身近にあったダブルクリップで閃きました。楕円形に削ったプラスチックを2つの小さなダブルクリップで挟み込む構造を思いつきました。楕円形で回転する時に緩急をつけ、理想通りのフタが完成しました。1994年4月に発売された「ムーバDⅡ」はスマートさが受けて大ヒットしました。これをキッカケに、携帯の開け閉めだけを特化した新会社を設立することになりました。

1999年2月「iモード」開始。携帯で扱う情報量が増え、液晶画面が大きくなっていきました。従来の一体型ではなく、画面と本体を分割した折りたたみ式の時代を迎えたのです。案の定、久保田のところにもパナソニックからの依頼が入りました。ところが、その要求はとてつもなく厳しいものでした。

蝶つがいを今まで以上に小さくしてほしいとのこと、その理由は配線でした。本体と液晶画面を繋ぐ配線のスペースが必要となり蝶つがいに使えるスペースは直径6㎜長さ12㎜しかなかったのです。この大きさは以前作った蝶つがいの半分以下の大きさでした。しかも、今回のはフタではなく液晶画面その重さは約5倍です。スペースは従来より小さくして、強度を増やすという難しい要求でした。さらに、デザイナーからの要求で「品のある開閉」を求められたのです。

まず取り組んだのは、小さくして強度を増やすこと。答えは、クリップのように身近にありました。「スプリング」です。スプリングは巻数が同じなら、直径が小さくなる程弾力が増します。小さくなるほど好都合だったのです。久保田は、デコボコのある2つのパーツをスプリングの力で噛み合わせる仕組みを考え出しました。液晶と本体をしっかり支えてスムーズな開閉も可能!こうして、「スプリング式開閉システム」が完成しました。

問題は「品のある開閉」でした。自動ドアやラジカセの開閉口の動きは一定ではありません。あの動きのように開閉スピードに変化をつけようと考えます。その為にデコボコのパーツのへこみの角度を調整、その感触を数値に置き換えていきました。どれくらいの速さでパカっと開き、どれくらいの角度でスッと閉じればいいのかミクロ単位で部品を削り、自分なりの理想的なスピードを目指し作業を続けました。それと同時に耐久テストも行いました。10万回の開閉に耐えられるかどうか毎日毎日開け閉めを繰り返し、「正」の字を積み重ねました。

こうして試作品が完成!それは、メーカーも納得の出来栄えでした。スプリングの力による心地良い抵抗感へこみの角度を33度にしたことで生まれた程よい開き具合、角度20度以下になると吸い込まれるように閉じる爽快感、こうして2000年8月。パナソニック初の折りたたみ式携帯「P209iS」が発売されました。以来、各社がこぞって折りたたみ式携帯に移行しました。今では、世界のトップメーカーも久保田の「スプリング式開閉システム」を採用しています。

 

 

 

イカ漁の未来を切り拓いた男 濱出 慈任

第128回で「濱出 慈任物語」を放映

今から約40年前、函館の漁師達はピンチを迎えていました。旧ソ連との200海里問題で漁業規制が厳しくなり漁獲高が激減したのです。函館の漁師に残されたのは、近海で獲れるイカだけでした。しかし、当時のイカ漁は手釣りしか出来ませんでした。網ではイカの体に傷がつき商品価値が無くなってしまうからです。そんな漁師達の苦労を見てきた人物が濱出慈任です。濱出は函館に生まれ育ち、漁船のパーツを作る仕事をする技術屋でした。

当時、イカは単価が安く、イカ漁は重労働のわりに利益の出ない漁でした。その事もあり、後継者不足という新たな問題も出てきたのです。そこで、濱出はイカ釣りマシーンを作ろうと決意しました。濱出は漁師の船に乗り込み、イカ漁を体験し研究を重ねました。

イカの手釣りには「しゃくり」という技が不可欠でした。釣り糸を手繰る速さに微妙な緩急をつけ、糸に付けた疑似餌を生き物のように動かす技です。この「しゃくり」を機械で再現すること。それが最大の課題となりました。

濱出は、糸を手繰るドラムを丸ではなく、ひし形にしてみました。そして、ドラムを回転させるモーターの電源をオン・オフ繰り返し針の動き緩急をつけたのです。このイカ釣りマシーンの試作機を乗せ、船はイカ漁に出かけました。ところが・・肝心な時にその機械は壊れ、漁師は大漁のチャンスを逃してしまったのです。壊れた原因は、オン・オフを繰り返すことでモーターに負担が掛かり過ぎた為でした。

壊れてしまうような機械ではダメだ・・ 濱出は決意を新たにしイカ釣り漁船を購入! 現場に出てしゃくりの研究に没頭しました。水中で動く針の動きをグラフにして分析。それは、とても複雑で不規則なリズムだったのです。濱出は毎日のように船を出し、船上での実験を繰り返しました。

しゃくりを再現するには、モーターのスピードを自在に変化させなければならない。
苦難する濱出がヒントを得たものは、エレベーターでした。速く動いてゆっくり止まる、この緩急は、しゃくりに使えると考えたのです。エレベーターに使われていたのは「インバータ」でした。今では、エアコンや洗濯機など多くの家電製品に使われていて
流れる電気の量を調整することでモーターの回転数を制御するものですが当時は、やっと一般化しはじめたばかりでした。

インバータを搭載し、あらゆるしゃくりを再現することに成功!こうして完成したインバータ制御のイカ釣り機は、見事に大量のイカを釣り上げました。開発から15年。念願のイカ釣りマシーンがやっと完成した瞬間でした。

ところが、イカ漁のシーズンまであと一月という時に、濱出は肺がんの為、帰らぬ人になりました。残念なことに、漁師達がイカ釣り機を使う姿を見る事が出来なかったのです。濱出の意思は、その息子に受け継がれました。今では、改良を重ねた自動イカ釣り機が世界で7割のシェアを誇っています。

 

 

電動工具の未来を切り拓いた男 青木 陽之介

第129回で「青木 陽之介物語」を放映

木造建築の多い日本は、木工用の電動工具の技術は優れていましたが石やコンクリート用の電動工具は、世界に遅れをとっていました。そんな電動工具業界に事件が起こりました。2000年、EUが電動工具の使用時間に規制を設けると発表したのです。激しい振動による神経障害が問題になっていたからです。その規制は、振動値14m/s*2以上の電動工具の使用時間を1時間以内に制限するというものでした。これが正式に法令化されるのは2005年。つまり、5年以内に振動の少ない電動工具を開発しなくてはならないということ。日本の電動工具のメーカー「makita」も、この開発に乗り出しました。そのプロジェクトチームの一員に選ばれたのが青木陽之介です。

工具が激しく振動する原因は、扱う相手が硬いからなのです。柔らかい木材ならドリルを回転させるだけで簡単に穴は開くのですが硬い石材やコンクリートの場合は、回転と同時に激しい上下動が必要になります。1秒間に50回近い上下動、これにより激しい振動が起こりました。振動を少なくする為に上下動を減らせば、その分作業効率も悪くなります。青木の課題はいかに振動を殺すかという事でした。

小手先だけの工夫では振動は消せない。青木は基本から考え直しました。学生の頃読んだ物理の本を引っ張り出し、改めて読み漁ったのです。そこで「動吸振器」という言葉を目にします。ある方向に動く力に対して、反対方向に動く力をぶつけ振動を消すシステムです。ビルなどの耐震設備に実用化されていて幅広く採用されているシステムなのです。これをヒントに、青木はひらめきます。ドリルの上下動に対して反対方向に動くおもりを取り付ければ振動は消せるはず。

しかし、この考えには重さの問題がのしかかりました。原理的に振動を完全に消すには、ドリルのモーターと同じモーターを取り付けおもりを動かさなければなりません。ただでさえ重い工具なのに、それでは使い物になりません。「モーターを使わずにおもりを動かす方法」悩みぬいた青木が見つけた方法は、相手の力を利用する柔道に似たような発想でした。

工具のモーターの中ではシリンダーの激しいピストン運動が繰り替えされています。青木が注目したのは、その空気圧の変化でした。これを利用しておもりを動かせばいい、青木はモーター内部の空気圧の変化をチューブを使いおもりに伝えるシステムを考案しました。これなら動力は本体のモーターのみ増える重量も100gに押さえることが出来ました。このシステムを使い試作機が完成。その振動は従来の物の約半分に押さえられました。

EUの厳しい審査基準をクリアし、2004年、低振動電動工具は完成しました。世界のトップメーカーもこの発想に追随。2008年にはヨーロッパでその技術力が高く評価されました。今やmakitaはヨーロッパを始め30カ国以上に支社のある世界的ブランドになっています。

 

 

 

チャンバラ映画の未来を切り拓いた男 久世 竜

第130回で「久世 竜物語」を放映

チャンバラという言葉は「チャンチャン、バラバラ」という刀の触れ合う音から生まれたと言われています。戦前の日本の映画は、チャンバラ映画が主流でした。初期のチャンバラ映画は歌舞伎を参考に作られていて、斬り合いのシーンは舞踊のようでした。そんな斬り合いに意義を唱えていた殺陣師が久世竜です。

役者が切り合う立ち回りのことを「殺陣」と言いその立ち回りを考える人が「殺陣師」です。斬り合いは殺し合いなのに、なぜ舞踊のような動きになるのか、そこに疑問を持ち意義を唱えた久世は、当時の映画界からは異端視されました。殺陣師としての声はかからず、役者としてなんとか食いつないでいました。そんな久世に運命の出会いがあったのが50歳を目前にした頃でした。久世に立ち回りの意見を聞き、じっと意見を聞いていた映画監督。この監督こそ、後に「世界の黒澤」と言われるようになる黒澤明監督でした。

黒澤監督と出合い、久世はやっと自分の思った世界を実現出来るようになり黒澤監督の映画「用心棒」「椿三十郎」と立て続けに作品を作ることになりました。黒澤監督は、斬り合いのシーンを撮るにあたり1つのテーマを掲げました。「所詮、殺し合いは意味のないはかないものだ」と、いうことを表現したい。これをどう殺陣に取り入れればいいのか、久世は悩みました。悩んだ久世は、夜な夜な繁華街に出掛けました。いつ起こるかわからない客同士の喧嘩を見る為です。殴られる者の苦痛に歪む表情をリアリティのある殺陣作りの参考にしました。しかし、本当の殺し合いを見れる訳もなく、久世の悩みは続きました。

人を斬る者はどういう思いで斬るのか、斬られる者はどうなのか、久世は、ある老剣士の言葉を思い出しました。その人は、侍同士が斬り合った最後の戦争「西南戦争(1877年)」の生き残りでした。「人を斬る時、そこには恐怖しかなかった」老剣士はそう語ったそうです。

この言葉で久世は1つの考えに辿り着きました。怖さゆえに人は無駄な動きを封じられるのではないか恐怖を感じるがゆえに、主人公は一太刀で決めようとする、そこに踊るような殺陣や無駄な動きは一切生まれないのではないか、斬るほうも斬られるほうも怖い、斬りたくはないが斬らなければ殺される、そこに、意味のないはかなさを見出しました。そして、極限まで無駄を無くした殺陣作りが始まりました。

通常、刀で切る場合は、「抜く」「斬る」の2アクションになります。しかし久世は、右手で刀を抜くアクションも排除しました。左手のみで刀を抜き、一気に切り上げる1アクションの殺陣を作り上げました。こうして、究極の殺陣「逆抜き不意討ち斬り」が誕生したのです。

この殺陣は、映画「椿三十郎」のラストシーンで使われました。このシーンで黒澤監督は、時代劇で初めて血しぶきを使い久世の殺陣をよりリアルで重量感のあるもの仕上げました。久世と黒澤が確立した殺陣のリアリズムは、世界に衝撃を与え多くの映画監督が影響されています。

 

【編集後記】当時を振り返り

未来創造堂の番組後半で放映された「偉人のVTR」そのナレーションを元に文字に起こしたものを当時のブログにまとめていました。ナレーションを文章にしているので表現がおかしくなっている部分もありますが、偉人たちのコダワリや苦労はこの文章でも分かりますね。15年以上前のVTRですが「折りたたみ式携帯」を創った話は今でもよく覚えています。今では少なくなっているガラケーの殆どは折りたたみ式、それが誕生したのが2000年ですから、携帯電話の進化は凄まじいなと感じます。