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未来創造堂 第131回~第140回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第131回~第140回で放映された偉人をまとめました。

名言「創造なき世に未来無し」額付き書道色紙/受注後直筆(千言堂)Y1761

鰹節の未来を切り拓いた男 新海 豊一

第131回で「新海豊一物語」を放映

第二次世界大戦後、日本の食生活は大きく変わりました。食材は欧米化していき、インスタント食品が人気を集めるようになっていきました。昭和36年、鰹節メーカーにんべんで研究開発をしていた新海豊一は悩んでいました。創業300年を誇る鰹節の老舗もピンチを迎えていたのです。日本食の代名詞とも言える鰹節の低迷は、日本食文化のピンチとも言えることでした。

鰹節はいちいち削るのが面倒。新海は考えました。削った鰹節を売ってみてはどうか・・・しかし、社内の仲間は猛反発。鰹節の命である香りが失われてしまうからです。それでも新海は削った鰹節にこだわりました。最高級の鰹節「本枯節」を削った物を売り出そうと考えていたのです。一流料亭で使われる本枯節を使い、一流の味と香りをお茶の間に届けよう。削られた鰹節は長持ちしません。酸素に触れて香りが消え旨味も飛んでしまいます。これは酸化と呼ばれる現象で、切ったりんごが変色したり釘が錆びるのと同じ現象です。どうしたら酸化を防げるのか・・ 新海がまず考えたのは真空パックでした。これで酸化は防げる。しかし、ペチャンコになり鰹節独特のふんわり感が無くなってしまいます。

酸化を防ぎ、ふんわり感を保つ物・・酸素の代わりになるものを一緒に入れればいいんじゃないのか・・新海がひらめいた物は「窒素」でした。空気の成分のおよそ8割は窒素、窒素ガスは無害で工業用にも広く使われていました。値段も安い窒素ガスを充填することで酸化を防ぐことに成功したのです。しかし、この方法でも一度開封すれば香りは逃げてしまいます。そこで新海は、1回で使いきれるような小袋タイプ考案。ダシなら2人分、ふりかけなら4~5人分という計算で分量は5gとしました。

そう決めたものの、新たな問題が発生しました。削り節が大きくて小袋に上手く入らない。もっと細かく削らなければ・・新海は様々な方法を試しましたが、どれも失敗・・
結局大きな目のザルを使い、鰹節を小さくし袋詰めしたのでした。かくして昭和44年5月、鰹節「フレッシュパック」が完成しました。本格的な香りと細やかな削りで、おひたしに掛けるという新たなスタイルを生み出しこの商品の発売を期に鰹節の消費は右肩上がりに上昇しました。小袋パックは今では常識となり、アジア圏やアメリカなどに輸出されています。

 

腕時計の未来を切り拓いた男 伊部 菊雄

第132回で「伊部 菊雄物語」を放映

衝撃に強い腕時計「G-SHOCK」を作り出した伊部菊雄のお話。デジタル腕時計が生まれたのは1970年代、1980年には日本でも続々と販売されるようになりました。CASIOでデジタル腕時計の開発をしていた伊部菊雄に事件が起こったのは1981年の事でした。ぶつかった拍子に腕時計が外れてしまい落下・・父親に貰った記念の腕時計が無残に壊れてしまったのです。腕時計は精密機械、壊れないように大切に扱うのが当時の常識でした。これをキッカケに「壊れない腕時計を作ろう」と伊部の開発が始まったのです。

それまでに軍用タイプ等で衝撃に強い物はありましたが全てアナログ。液晶や電子機器を使うデジタル時計で衝撃に強いものはありませんでした。伊部は早速「落としても壊れない腕時計」として上司に提案したものの・・世の中は軽薄短小な物が流行りだした時、頑丈にして分厚くしたら売れないと提案は却下されました。しかし、伊部は諦めず仕事が終わってからの時間を使い、一人開発を始めました。

伊部はまず、腕時計本体にゴムを巻き付け衝撃を吸収しようと考えました。試作品を作り、それで壊れないか実験をすることにしました。実験の場所に選んだのは3階のトイレの窓、そこから地面までは約10m!伊部は「10mの高さから落としても壊れない腕時計」を目指し実験を繰り返しました。伊部の作った試作品はことごとく失敗。その数は200個を超えました。行き詰った伊部がヒントを得たのは、職場の隣の公園でした。ボール遊びをしている少年を見て、ボールの中に時計が吊るされていたらと考えました。外部からの衝撃は空間に吸収されて内部には届かない。それまでの試作品は、全て本体とカバーが密着していたので衝撃がモロに受けていたのです。

ヒントを得た伊部は、デジタル時計本体を4つの層でカバーして空間を作りその接触面を点で支えるようにしました。こうする事で中心部は宙に浮いた状態に近くなり衝撃が伝わりにくくなると考えたのです。こうして作られた試作品は、10mの高さから落としても壊れず時を刻み続けました。こうして、1983年にG-SHOCKは完成しました!

しかし、薄型がもてはやされた時代に従来の3倍以上の厚みのある時計、発売までこぎつけたものの、案の定さっぱり売れませんでした。そこに追い討ちを掛けるように事件が起こりました。アメリカの販売会社が作ったCMがアイスホッケーのパック変わりに時計をシュートするというものでそれでも壊れないというのは誇大広告ではないか?と番組で検証されることになったのです。

アイスホッケーのシュートの衝撃は、地上40mから落下した時の衝撃に相当します。
伊部の実験設定の4倍、この検証で壊れてしまったらG-SHOCKの未来は絶望的・・・検証の結果は見事クリア!壊れることなく時計は動き続けました。この検証の様子を放送した番組をキッカケに、この時計に飛びついたのはアメリカのボーダーやミュージシャン達、流行の最先端をいく若者達でした。無骨なデザインは軽薄短小とは違う、ヘビービューティという新しいスタイルを確立しました。

日本での大ヒットのキッカケは、1994年公開の映画「スピード」主人公キアヌ・リーブスの腕には、G-SHOCKがはめられていました。これを見た当時の若者がこぞって買い求め大ブームが巻き起こりました。カラー素材の特性から金属では不可能な色付けも可能になりG-SHOCKはファッションアイテムの定番となっています。

 

食器洗い機の未来を切り拓いた男 谷口 裕

第133回で「谷口 裕 物語」を放映

日本初の食器洗い機を発売したのは、松下電器産業(現パナソニック)で1960年のことでした。アメリカ製の食器洗い機を参考に作られたその製品は、洗濯機のような外観で全く売れなかったそうです。日本人には無用の品物と言われ、時は流れて1983年。松下電器の社員だった谷口裕は、食器洗い機の開発を命じられます。洗濯機や冷蔵庫の開発を夢見ていた谷口は、渋々開発に乗り出しました。

まずは使い勝手を試そうと、メリカ製の食器洗い機を持ち帰りました。持ち帰った食器洗い機を妻に使ってもらい、その意見を開発の参考にしたのです。その意見を聞き、これは主婦の味方になるかもと思い、谷口のやる気は一気に上がりました。妻の意見を参考に、まずは製品のサイズをコンパクトにしました。種類の多い日本の食器の並べ方を色々試し、水を当てる角度を試し、コンパクト化に成功!

次の問題は食器の汚れ。これも妻の食器の洗い方を参考にしました。たんぱく質は冷たい水で、油汚れは温水で、ご飯粒はつけ置きしてそれらを参考に、水を除々に60℃まで上げていく方法をあみだしました。こうして、1986年。コンパクトな食器洗い機NP-600が発売されました。しか~し、売れ行きはさっぱりでした。売れない理由は、手洗いを越える魅力がないからと考えた谷口。食器を洗っている妻を見ていて閃きました。食器を洗う時の水の量です。4人家族の食器を洗うのに必要な水の量は約100L浴槽半分くらいの量です。世の中は節電・節水といった省エネブームが起こっていました。これに目を付けた谷口、使う水を減らす事が出来れば手洗いを越える魅力となると考えたのです。

それまでの食器洗い機は、ノズルの回転だけに水の20%を消費していました。谷口は、ノズルの形に注目しなんとか節水出来ないかと考えました。ヒントは身近なところにありました。曲がったホースに一気水を流すとホースはのたうちます。この原理を利用し、曲げたノズルに一気に流せば自然に回転するということを発見しました。こうして、全ての水を無駄なく洗浄用に使うことに成功。1999年、手洗いの時と比べ水の消費を1/7にまで抑えた食器洗い機NP-33S1が完成したのです。最初の食器洗い機の開発から数えて苦節40年。手洗いではとても敵わない節水能力は消費者の心を捕え、それまでの売上の17倍を記録しました。今では、年間70万台を突破し、普及率は30%近いそうです。

 

 

 

解体作業の未来を切り拓いた男 坂戸 誠一

134回で「坂戸 誠一物語」を放映

住宅の建築ラッシュのあった昭和40年代、坂戸誠一は、父親の営む解体重機の会社に勤めていました。その当時、建築の技術は凄まじく進歩したものの解体の技術は、大きな鉄球をぶつけたり、油圧ブレーカーで打ち壊す方法が主流でした。力任せのこの方法は、騒音が大きすぎる、破片が飛び散るなどの問題多かったもののコンクリートを壊すには仕方ないと、それが当たり前になっていました。こんな原始的な状態ではダメだと感じた坂戸は、新しい解体機を作ることを決意したのでした。

パワーショベルの先端を解体専用の機械に取替えて解体は行われています。従来の解体機よりも小さな力でコンクリートを破壊する方法はないか・・坂戸は、その方法を見つけるべく、身近にあるありとあらゆる破壊に目を向けました。なかなか良い方法が思い浮かばない中、ヒントは突然現れます。それは、白アリ。テレビに映った白アリは、家の柱を小さなアゴで砕いていたのです。砕くには挟めばいい、この瞬間に思い浮かんだ解体機の形はペンチ。破壊には衝撃破壊と静的破壊があり、ペンチでの破壊は静的破壊。じわじわと力を加えていけば、必要最小限の力で対象物が壊れてくれます。

こうして、昭和52年、挟んで壊すという今までにない解体機「ペンチャー」が誕生しました。評判を呼び全国に広まったペンチャーでしたが、大きな落とし穴があったのです。コンクリートを壊す力に機械のほうが耐えられず、ペンチの根本部分が欠ける等の故障が相次ぎました。もっと小さな力で破壊出来なければダメだ、坂戸は窮地に立たされます。

機械を改良すべく、そのヒントを探す毎日。アイスピックで氷を割るように、挟む機械の先端に尖った刃をつける事を考えましたが表面だけがかけてしまい、全体の破壊はうまくいかなかったのです。坂戸が得た次のヒントもテレビからでした。それは時代劇、薬研という道具を使い薬を磨り潰している医者が映っていました。これを見た坂戸はひらめき、尖った刃ではなく、薬研のような刃にすればと考えます。円錐型の刃では力が360度に分散してしまうが、薬研のような刃なら力は2方向に集中するはず、その考えは見事的中!従来の3分の1の力で破壊することに成功したのです。

こうして完成した新型解体機は、騒音も少なく全国の多くの現場で採用されました。海外でも高く評価され、世界の解体機のスタンダードになっていきました。この坂戸の解体機は、ドイツのベルリンの壁の解体やアメリカの同時多発テロの復興事業など、世界の歴史的現場で活躍しています。

 

 


吊り橋の未来を切り拓いた男 古家 和彦

第135回で「古家 和彦物語」を放映

神戸と淡路島を結ぶ世界最長のつり橋「明石海峡大橋」このつり橋に使われているケーブルの開発が最大の難関だったそうです。そのシステムを考案した人が古家和彦です。

1988年5月、明石海峡大橋着工、本州四国連絡高速道路に勤めていた古家の元に悪い知らせが入りました。6年前に完成した因島大橋のケーブルを点検したところ錆で赤茶けていることが分かったのです。急遽、瀬戸大橋のケーブルも点検したところ同じように錆びていました。明石海峡大橋でも同じ錆対策を使おうとしていた矢先の事で深刻な問題でした。つり橋は二本の支柱を立て、そこにケーブルを渡して道を吊るという仕組みです。つり橋の命といってもいいケーブルの錆対策は最重要課題だったのです。

3910mの明石海峡大橋に使われるケーブルは直径1.2m、その内部は錆ないように亜鉛コーティングされたワイヤーが束ねられています。その束ねられたワイヤーを水の浸入を防ぐペーストで覆いその上をワイヤーでぐるぐる巻きにしてから、きっちりと防水塗装する予定でした。万全の錆対策と思われましたが、この方法でも他の橋のケーブルが錆びていたのです。

急遽、錆対策部が作られ、古家はそこに送り込まれました。予定されていた錆対策は、ニューヨークにあるブルックリン橋で使われているものでした。ブルックリン橋は100年以上経っているのに錆が一切出ていません。同じ方法なのになぜ?と考えた古家、その違いは気候風土にありました。

高温多湿の日本に比べ、アメリカの気候ははるかに空気が乾燥しています。同じやり方では、錆は防ぎきれないということでした。着工からすでに1年半が過ぎており、ケーブルを1から作り直すわけにもいきません。事態は一刻を争う深刻な問題となっていました。古家の努力が始まりました、錆を発生させない為には湿り気を遮断するしかない。コーティングを厚くしてみたり、ペーストの素材を変えてみたり試行錯誤を繰り返しましたが、どこからか湿気は入り込み、良い方法は見つけられませんでした。色々考え、万策尽きたかと思われた時に、古家は閃きました。

それは全く逆の発想。湿気を遮断するのではなく、ケーブルに乾いた空気を送るという方法でした。4100mあるケーブルの140mおきに送風口を設置し合計32箇所の送風口から24時間絶え間なく乾燥した空気を送る事にしました。それが古家が考案した「送気乾燥システム」です。送られた空気は束ねられたワイヤーの隙間に入りこみ細部に渡って空気が流れます。実験を重ねたところ、コップ1杯の水が浸入しても1日で完璧に乾燥するという結果がでました。前代未聞のこのシステムが取り付けられ、1998年4月 明石海峡大橋は開通しました。

古家の真の戦いはここからでした。世界で初めての錆対策、その対策が万全かどうかは
10年後にあたる今年、2008年の点検で明らかになるからです。2008年1月、ケーブル内の水が一番溜まり易い場所が開かれくまなく点検されました。その結果、錆はどこにも見当たらなく、まるで新品のような輝きでした。現在、古家の考案した技術はスウェーデンやデンマークでも採用されています。

 

 

 

ブラジャーの未来を切り拓いた男 玉川 長一郎

第136回で「玉川 長一郎物語」を放映

現在のような肩ヒモのついたブラジャーは1916年にアメリカで誕生しました。動きやすくバストの形も美しく見えるということで急速に普及。日本でも大正時代からこのタイプのブラジャーが作られるようになりました。昭和39年、玉川長一郎は、ブラジャーメーカーであるワコールで販売・営業を任されていました。

日本人の衣服が和服から洋服へと変化していったこの時代、ブラジャーの需要も多くなりました。しかし、当時作られていたブラジャーはとにかく評判が悪く、着ける事でバストの形が余計に醜くなるとまで言われていたそうです。その理由はバストの形にありました。アメリカ人向けに作られたブラジャーでは正しいサイズ・カップのブラジャーを着けてみても全然フィットしなかたのです。

もっと日本人にあったブラジャーを作るべく、玉川の研究が始まりました。玉川は会社に嘆願し、乳房を調査する為の研究部を設立したのです。研究を進めるにあたり、スイスの人類学者ルドルフ・マルチンの書を参考にしました。人種による体型の違いを調査していたマルチンの学説によると乳房の分類は、円錐型、半球型、皿型、ヤギ乳型の4つに分類され日本人の乳房は皿型が多いとされていました。

この定説を元に、玉川は日本人のバストの形を検証することにしました。新聞広告等でモニターを募集し、マルチンの測定法を元に一人一人測定していきました。詳細なデータをとっても、それは数値のみ乳房のイメージが伝わってこないのが問題でした。

そこで玉川の思いついた方法が、地図などで山や谷を表す等高線でした。地図を作る時に使う航空写真用のカメラを手に入れ、そのカメラで乳房を撮影してみました。すると、ちぶさに等高線が記され、立体的な乳房のデータが分かるようになったのです。
ここから、測定の日々が続きました。撮影コストを下げる為に、等高線を直接胸に映し出す装置を開発し5年の歳月をかけ5000人の乳房のデータを集めました。

そのデータから、玉川はスゴイ事実を見つけ出します。マルチンの定説の4種類の乳房とは違う新たな乳房があり、その形こそ日本人に最も多い形だったのです。上側が殆ど膨らんでいないこの乳房は、三角型と名付けられました。乳房の形の次に、玉川は乳房の動きの研究に取り掛かりました。どの方向にどのくらいの力をかければ、美しく窮屈でない補正出来るかを考えたのです。それを知るには、乳房を動かすしかありません。徹底的に乳房を動かしデータを集め調べたモニターの数は8000人を超えました。そしてまた、ある事実を発見しました。

乳房は、外側と下側には2㎝程しか動かないのに対し、内側と上側には5㎝近く動く事が判明乳房は、寄せて上げる方向によく動くという事を突き止めたのです。これらの結果を元にダミーと金型を作り理想的な形が出来上がりました。1972年、研究から8年の歳月をかけ、シームレスカップブラ「ルネス」が発売されました。今でも、最先端の技術を用いて乳房のデータ収集は続けられています。また、中国など海外でも調査が行われ、その国の女性にあったブラジャーが作られているのです。

 

 

 

椅子の未来を切り拓いた男 吉川 秀信

第137回で「吉川 秀信物語」を放映

吉川秀信氏は、理髪店などにある電動の椅子を作った人です。昭和20年、吉川は空襲により工場を失いましたが、いつかアメリカに負けない物を作るんだと心に近い工場を再建、目指したのは帝国ホテルの理髪店で見たアメリカ製の椅子でした。時は流れて昭和35年。理想の椅子を目指して現場を視察していた吉川は、ある事に気付きます。理髪師は常に両手を使い仕事をしている、そして、お客の高さに合わせて長時間腰をかがめて仕事しなければいけませんでした。この重労働に加え、当時の椅子は背もたれを倒すのもお客の体重を理髪師が支え手作業で倒していました。吉川は、お客がゆったりくつろげて、しかも理髪師の手間がかからない椅子を作ろうと決意しました。

当時の日本は経済成長の真っ只中。世の中には便利な家庭電化製品が続々登場していました。電気の力を使って動く椅子を作れば、理髪師もお客も喜ぶはずと吉川は考えます。しかし、電動化しようにもリクライニングの角度やスピードが全くわかりません。
理髪店に来るのは、子供から大人まで身長や体型も様々、吉川は悩みました。悩む吉川が目にしたのは、完成間近の新幹線の記事でした。その座席には、長時間座っていても疲れないように最先端の技術が使われていたのです。吉川は早速、新幹線の座席の設計者の下を尋ねました。人間工学の草分け的存在、千葉大学の小原二郎教授がその人でした。人間工学とは、人体の構造や人間の心理を分析して使い勝手の良さを追求する学問です。今でこそ一般的になりましたが、その当時はそんな概念は殆ど知られていませんでした。

小原教授は、いきなり訪れ「理髪店の椅子を作りたい」という吉川に最初は戸惑いましたが良い物を作りたいという情熱に意気投合し、理想的な椅子作りが始まったのです。子供が座った場合、お年寄りが座った場合、理髪師が作業のしやすい椅子の角度など老若男女を問わずあらゆる人を調査、7年の歳月をかけ、その数は数万人におよびました。そして、ついに1つの答えを導きだすことが出来ました。

“背もたれの角度は96度から151度へ” “リクライニングのスピードは倒す時も戻す時も3秒間” “椅子自体の昇降スピードは15㎝を6秒間で上げ下げ” この数値は、現在に到るまで理髪店の椅子における基準となっています。こうして昭和41年、ボタン1つで作動する世界初の電動理容椅子が誕生しました。

最初の納入先は、地元大阪の千日前にある理髪店でした。それまでの椅子の2倍の値段でしたが、ボタン1つで動く使い勝手の良さが評判を呼び銀座や横浜などの有名理髪店からも注文が殺到、日本中に広まりました。さらに噂は海を越えアメリカでのシェアは100%近く獲得しています。吉川の椅子は、理髪店だけでなく美容室やエステサロン、歯科医などに導入されています。

 

 

 

きのこの未来を切り拓いた男 森 喜作

第138回で「森喜作物語」を放映

森喜作氏は、世界で初めて椎茸の人工栽培に成功し小学校の教科書に取り上げられたこともある人です。森は、群馬県の裕福な家庭に育ったいわゆるボンボンでした。昭和7年。京大の学生だった森は、農村の実態を調査する為に大分県日田を訪れました。そこで見た光景は、並べられた丸太の前で一心に祈る農夫の姿でした。この辺の地域は土地が痩せていて田畑が耕せない為、炭焼きや椎茸の栽培を生活の糧としていました。

しかし、江戸時代から始まった椎茸栽培の方法は、丸太にナタで切れ目を入れ椎茸が生えるのを神に祈って待つという不安定で原始的な方法でした。貧しい農村、生えなければ一家離散や娘を身売りという状況を見た森は確実な椎茸栽培の方法を見つけて、この人達を貧困から救ってやりたいと思いました。

故郷の群馬県桐生市に戻った森は、椎茸栽培の為の研究所を建てました。椎茸は植物ではなく菌類です。枯れた木に生え傘の部分から胞子を飛ばし子孫を増やします。これまでに多くの研究家達が、胞子を人工的に採取して椎茸を栽培しようと考えましたがことごとく失敗に終わっていました。そこで森は、胞子ではなく椎茸の本体の菌糸に目を付けました。菌糸は、カビと同じように自ら細胞を増やし成長することが出来ます。この菌糸を枯れ木に埋め込めば確実に椎茸が生えるんじゃないかと、森は考えました。

森は、菌糸を増やす作業を始めました。試験管の中で菌糸を培養しそれをおがくずの中に移して、それを丸太の切れ目に埋め込みました。椎茸は、栽培におよそ2年の歳月がかかります。失敗か成功か分からぬまま時は過ぎました。結果・・この方法では菌糸は根付かず椎茸は生えませんでした。その原因も分からず試行錯誤を繰り返していき、親から譲り受けた財産を使い果たしてしまいました。しかし、森は研究を諦めず、芋や梅を育てて研究資金にし研究を続けました。

森の研究は10年続き、菌糸は乾燥に弱いという事を突き止めます。菌糸をおがくずに混ぜて植えつけても乾燥してしまい根付かなかったというわけです。そこで、おがくずを溶かしたロウでフタし、乾燥を防ぎました。すると・・椎茸が生えたのです。 しかしこの方法では手間がかかり過ぎます。もっと簡単な方法にしなければ普及するのは難しい・・ 良い方法はないかと森は悩みました。

それを解決したのは、身近にある意外な物「将棋の駒」でした。将棋の駒のような小さな木片なら使えるかもしれない・・ 森は早速試しました。これなら木片自体がフタになるのでロウはいらず、木片と木が密着するので乾燥も防げる埋め込むのも簡単な木片はまさに理想的、森は木片に菌糸を根付かせ繁殖させる事に成功しました。

森は、この木片を持って10年ぶりに大分県の山村を訪れました。それを丸太に埋め込んだ農家の人達、木片から確実にしいたけが生えてきました。この木片は、種駒と名付けられ、日本全国に広まり椎茸の生産量は飛躍的に増えました。森の考えたこの人口栽培法は、60年以上経った現在でも一切変わっていません。今では、なめこや平茸の人工栽培にも応用され、沢山きのこを食卓で食べれるようになりました。さらに椎茸は、アメリカやフランスでもShii-TAKeeと呼ばれ食されています。

 

 

 

海の未来を切り拓いた男 吉永 勝利

第139回で「吉永勝利物語」を放映

世界で問題になっている海上汚染、日本も例外ではありません。1990年代、長崎県の大村湾は生活排水などにより酷く汚染され古くから盛んだった真珠養殖も大打撃を受けていました。そんな様子を見て、海の危機感を感じた男、吉永勝利。元漁師で魚群探知機の開発も手掛けたことのある人物です。

大村湾は、波も静かな内海で真珠養殖に適した場所です。しかし、内海はよどみやすい、そこに生活排水が流れることで酷く汚染されていました。濁った海では、酸素が不足します。特に海底の酸素不足は深刻な問題でした。海の底に住む生物が死に、死骸がヘドロ化するという事態に繋がったのです。吉永は、以前から不思議に思っていた事がありました。それは、“海に積んでいる水は、なぜか腐らないということ”その原因は、ゆらゆらと揺れる船の上でタンクの中の水はたぷたぷとかき混ぜられているからです。それにより始終酸素がくまなく混ざった状態を保っていたのです。それなら、「海全体をかき混ぜればいいんじゃないか?」吉永はそう考えました。

吉永がまず考えたのは、海の中にプロペラを沈める方法。しかしこの方法は、塩水の中でモーターを回すことになり現実的ではありません。そこで、海底から巨大な空気の塊を発射して、その空気の球で海底をかき混ぜる方法を試しました。県知事に願い出て補助金を貰えるようになり、大規模な海底浄化作戦となりましたが1ヶ月間の実験の結果、海底の酸素は一向に増える気配がありません。発射された空気の球は、まっすぐ上に向かって進むだけなので、かき混ぜるまでの力は無かったのです。発射口を横にして、横向きに発射してみましたが、結果は同じでした。

作戦は大失敗!空気ではなく他の物を使って混ぜれないか・・辿り着いた方法は、水を使って水を混ぜるという方法でした。水中の筒に水を送り込むと、筒の後ろ側から水が吸い込まれるそして、その水力が合わさって、前方に吐き出される。物理の有名な法則を利用した仕組みです。早速、試作機を作り風呂場で試した吉永は、夢中になり2時間漬かっていたそうです。風呂場での実験は大成功でした。これを元に、「ジェットストリーマー」が完成。直径60cm、長さ2.5m、筒を2重構造にすることで吐き出す水の量を7倍まで増やしました。

1994年6月、ジェットストリーマーを使い、吉永のリベンジが始まりました。大村湾にジェットストリーマーが沈められ、浄化作戦が開始されました。しかし、真珠養殖業者から苦情が押し寄せられました。海底の汚れが巻き上がり、真珠養殖の貝に付いてしまったのです。すぐに止めろ、撤去しろという漁師達を吉永は懸命に説得しました。
1ヵ月後、養殖業者に連絡を取ってみると、例年より質の良い真珠が出来ているとの報告。ジェットストリーマーの効果は絶大で、1台でおよそ120万tの海水をかき混ぜられました。このジェットストリーマーは、その後世界10カ国以上で採用され平等院鳳凰堂の池の浄化にも使われています。

 

 


シュレッダーの未来を切り拓いた男 高木 禮二

第140回で「シュレッダー誕生秘話」を放映

昭和30年代、高度経済成長真っ只中の日本では、オフィス危機の需要も高まり複写機などの新しい機器が爆発的に売れるようになりました。高木禮二は、複写機や複写機などに使う現像液の販売を手掛けていました。高木は、取引先で廃棄処分される紙の量がどんどん増えていることに気付き、中には外部に漏れてはマズイ書類も含まれていることを知りました。当時、書類等の処分は燃やしてしまうのが一般的でしたが焼却炉からでるバイ煙が大きな社会問題となってきていた時期でした。今後は、大事な書類を燃やさずに処分する機械が必要となる。高木はそう直感しました。

紙をどのように処分したら良いのか・・・ 高木は色々な方法を試しました。薬品で溶かす方法・急速冷凍して粉砕する方法・水でこねて粘土状にする方法など処理は出来るものの、どの方法もオフィスでやるには実用的ではない、高木は行き詰りました。そんな時、行きつけのうどん屋でうどんの麺を見て、高木はひらめきました。うどんの製麺機のような原理で機械を作ればいいんだ。製麺機のカッターを元に、紙でも滑らないようギザギザの付いたカッターを開発。これにより、1枚の書類をうどんのように細長く裁断することに成功。こうして昭和35年、シュレッダー一号機が誕生。「寸断する」という意味の英語shred(シュレッド)から、msシュレッダーと名付けました。

完成したものの、この機械はサッパリ売れませんでした。高度成長期のこの時、企業に機密保持という考えがなかったからです。いつか必要になる時代がくるという信念を元に、高木は諦めず宣伝活動を続けました。新聞に広告を出したり、テレビのコマーシャルも作りました。地道な活動を続ける中、高木を奮起させる事件が起こります。昭和39年、印刷会社の廃棄書類から企業秘密を盗んだロシア人が逮捕、日本発の産業スパイ事件です。この事件をさかいに、機密保持の重要性がささやかれるようになります。

紙を縦に裁断する機械はドイツでも開発されており、単調な縦方向だけの裁断では、スパイ達に書類を再現されてしまうのです。もっと細かく裁断する機械を作ろう。高木は新たな機械作りを始めます。これまでの縦方向の裁断に加え、第3のカッターで横方向にも裁断するようにしました。これにより、紙はより細かく裁断されることになりましたが規則的な裁断では、復元されてしまう可能性があります。そこで、紙をひきちぎるように切れないかと考えます。そうすれば大きさはバラバラになる。

高木は、円盤状だったカッターに突起を付けた新たなカッターを開発しました。昭和52年、「ワンカットクロスカッター」を使ったシュレッダー「MSシュレッダーCⅡ型」が完成!現在でも同じ仕組みが使われており、進化した最新のシュレッダーはA4サイズの書類が約12000ピースのバラバラの紙くずに裁断されるようになりました。
シュレッダーという呼び名は海外でも使われるようになり情報漏えいに厳しい、アメリカの国防機関でもこのシュレッダーが使われています。

 

【編集後記】当時を振り返り

未来創造堂の番組後半で放映された「偉人のVTR」のナレーションを元に文字に起こしたものを当時のブログにまとめていました。ナレーションから文章にしているのでおかしな点もありますが、偉人のコダワリや当時のトライ&エラーは分かると思います。元々は海外で発明された物をより使いやすく改良する。この10回の偉人たちもそういう話が多く、コツコツと努力するというのは日本人の国民性なのかなと感心するばかりです。