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未来創造堂 第151回~第160回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第151回~第160回で放映された偉人をまとめました

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昆布の未来を切り拓いた男 長谷川 由雄 吉村 捨良

第151回で「昆布養殖誕生秘話」を放映

長谷川由雄氏と吉村捨良氏は、昆布養殖の分野で非常に重要な役割を果たしました。

長谷川由雄氏は、北海道区水産研究所で昆布の胞子培養に成功し、昆布養殖の実用化に大きく貢献しました。彼の研究は、昆布養殖の基礎を築き、その後の昆布養殖の発展に大いに寄与しました。

一方、吉村捨良氏は、昆布漁師であり、日本で初めて昆布養殖を実用化した人物として知られています。彼は、昆布養殖の技術や漁具の開発に尽力し、その功績が認められ、日本発明特許学会から表彰されました。

吉村捨良氏が昆布養殖に取り組み始めたのは、昭和41(1966)年のことです。当時、天然真昆布の漁獲量は年による変動が大きく、それだけでは漁師の生計が成り立たなかったため、多くの漁師さんは出稼ぎに出るのが普通でした。しかし、昆布養殖の実用化により、昆布漁家の暮らしは出稼ぎから解放されました。

吉村捨良さんは、「のれん構造」と呼ばれる昆布養殖の方法を考案しました。この方法では、胞子を培養して種苗を作り、これをロープに着床させて上から吊るすのです。この「のれん構造」は、全国の海苔や真珠の養殖施設を参考に、悩んだ末にたどり着いた形だそうです。

これら二人の功績は、昆布養殖の発展に大いに貢献し、現代の昆布産業に大きな影響を与えています。昆布養殖の技術は、昆布漁師の生活を大きく変え、昆布産業の安定化に寄与しました。これらの功績は、今日の昆布産業における重要な基盤となっています。

 

 

着物の未来を切り拓いた男 久保田一竹

第152回で「久保田一竹 物語」を放映

室町時代に隆盛を極めた「辻が花」という絞り染めの技法。江戸末期には技術の継承者も絶えた400年前の技法を復活させた男、その人が、久保田一竹(くぼた いっちく)氏です。

久保田一竹は、室町時代に栄えた絞り染めの一種である「辻が花染め」を現代に復活させた染色工芸家です。彼はこの古典的な技法に現代の感覚を融合させ、独自の「一竹辻が花」を完成させました。

「辻が花染め」は、模様の輪郭を細かく縫うことで絵画的表現のできる縫い取り絞りや、帽子絞り、桶絞りなどの絞り染めと、カチン染め(墨描き)など伝統的な技法を用いる絞り染めのことを指します。

久保田一竹の「一竹辻が花」は、縫う・絞る・染める・蒸す・水洗いする・絞りを解くという作業工程を何十回と繰り返して完成されるため、装飾や彩色の細やかさは他の着物の比ではありません。そしてこの技法は、糊を置いて地色を染め、先に絵模様を描き染料を挿して立体感を表現するため、本来の辻が花とは技法が異なるのです。

久保田一竹の作品は、その独特の世界観と、染料と素材の間に起こる現象を知り尽くしたその知識と手でデザインごとに技法を変え、複雑な染色工程を経て生み出される作品群として評価されています。理想とするイメージの着物に仕上がるまでに一年を要したものもあります。久保田一竹美術館では、彼の作品を観ることができます。彼の作品は、精妙且つ大胆で広大な宇宙を表現しています。久保田一竹の作品は、その独特の世界観と、染料と素材の間に起こる現象を知り尽くしたその知識と手でデザインごとに技法を変え、複雑な染色工程を経て生み出される作品群として評価されています。理想とするイメージの着物に仕上がるまでに一年を要したものもあります。久保田一竹美術館では、彼の作品を観ることができます。

 

 

紙の未来を切り拓いた男 日比野 良彦

第153回で「日比野良彦 物語」を放映

今から約40年前に判明した「酸性紙問題」紙に含まれる酸の影響で20世紀前半に刊行された書物の約97%がボロボロになり読めなくなることが分かりました。この事態を重くみた世界中の製紙会社は懸命に対策を考えました。三菱製紙の日比野良彦もその中の1人でした。

紙を酸から守る為に、約2400万通りある薬品の組み合わせを試し最良の薬品の組み合わせを試し紙を作るという地道な作業を繰り返し3年という時間と1000枚以上の紙を作って、現在ある「中性紙」を作りあげたのです。

 


抹茶の未来を切り拓いた男 杉田 芳男

第154回で「杉田芳男 物語」を放映

今でこそ、当たり前のように食べられる「抹茶味」そもそもお茶は飲む物であって食べる物では無く、昔は食べれなかったのです。抹茶味の食べ物を作るべく、悪戦苦闘したのが老舗お茶メーカーの4代目 杉田芳男です。

抹茶が食べられない原因が雑菌!茶葉を石臼でひくという製法で作る抹茶は、空気中の雑菌が付着しやすいのです。飲むだけなら60℃以上で雑菌は死滅する為問題ないが、生で食べるとなると別。かといって熱処理で殺菌すると、風味が飛んでしまう。この難題を克服すべく、茶業界の批判とも戦い、雑菌が付かないクリーンルームを作りました。

こうして、生で食べられる抹茶が作り出されたのですが・・・杉田の情熱はそれでは収まらず、農薬を使わない有機栽培を目指しました。雑菌の少ない高地に茶畑を作り、その場所でも上部に育つ苗を研究して10年。絶対安心で安全な食べられる抹茶が完成。その味も抜群の物が出来たのです。

 

 

キッチンシンクの未来を切り拓いた男 三浦 正嗣

第155回で「三浦正嗣 物語」を放映

陶器メーカーINAXの研究員 三浦正嗣。洗剤を使わなくても汚れが落とせるように、汚れにくい素材を探していた三浦。そのヒントを得たのは、「かたつむり」からだったそうです。

かたつむりはいつも外にいるのに、体はいつもピカピカしている・・ そこに手掛かりがあるかもと、かたつむりの研究を進めていくと「シリカ」という物質で覆われていることが判明します。これがカタツムリがいつも綺麗な秘密。このシリカを使い汚れないシンクを作れないか考えた三浦は、セラミックに目をつけます。

ステンレスより固いセラミックなら傷も付かない、さらにシリカを混ぜれば汚れも付かない。しかし、セラミックは割れやすいという欠点があり、固くて割れにくく、そして汚れにくいという全く新しいセラミックを目指し1999年 汚れないセラミックシンクが完成しました。

 

 

歌謡曲の未来を切り拓いた男 吉田 正

第156回で「吉田 正 物語」を放映

ムード歌謡と呼ばれるようになった音楽を作りだした作曲家、吉田正の物語。盛り場に通い、行き交う人々を観察しながら都会の哀愁を音楽に出来ないか考えた吉田「街のサンドイッチマン」という曲を作りましたが、軽いテンポが受けませんでした。

ひらめいたのは、京都 祇園で聞いた芸者の三味線。日本の和音階には、「民謡音階」と「都節音階」があり都節音階を組み合わせた曲は、ほのかに暗く、哀愁のある曲になるのです。京の座敷歌でよく使われる為に都節と呼ばれてきた音階を取り入れた曲が
「有楽町で逢いましょう」 歌:フランク永井この歌をキッカケにナイトクラブでは、吉田の曲で溢れ、恋人達は有楽町で待ち合わせるなどの社会現象にも影響を与えました。その後、吉田は「青春歌謡」「リズム歌謡」と言った新しいジャンルを開拓し約2400曲ものヒット曲を世に送り出したのです。

 

 

活魚の未来を切り拓いた男 卜部 俊郎

第157回で「卜部俊郎 物語」を放映

魚のツボを専用の針で突き刺し、魚を眠らせた状態にして空輸する。そんな夢のような方法を見つけた人 卜部俊郎。かつては大工だった卜部が漁業に係わりだしたのは1991年の頃、しめた「鮮魚」の状態で送られている関サバや関アジ、その方法は江戸時代と変わりません。そんな古い方法を続けている世界があるのかと驚いたそうです。

魚を生きた状態で運ぶ「活魚」は、活魚車に魚が泳げるだけのスペースが必要でコストが多くかかってしまうし、魚の身が痩せてしまうという欠点がありました。そのせいで、関サバの活魚が流通しているのは大阪の高級店止まりだったのです。それをチャンスと思った卜部は生きた関サバを東京へ空輸出来ないかと考えたのです。

大工仕事をきっぱりやめ、誰もやったことない未知の世界へ飛び込んだのです。テレビで見た中国鍼をヒントに、自分で作った針を魚に刺し、魚の動きを止める研究を繰り返す。魚にそんなツボがあるかも分からないし、成功するかどうか分からないという挑戦。魚を眠らせるなんて出来る訳がないと周囲の者があきれてもその研究を続けました。

魚を捕まえては鍼を刺し、試行錯誤を繰り返すこと1年半。ついにその方法を見つけ出し、周囲の人々も卜部の情熱に引き寄せられ空輸プロジェクトチームが誕生!2001年8月22日 3匹の関サバが眠らされ僅かな海水と共に空輸されました。3時間後、東京に着いた関サバはスヤスヤと眠った状態でした。

この方法は通常の活造りよりも血中の乳酸値が少なくなり魚の生臭さを抑えられるというメリットもあることが判明しました。研究が進み、大型のマグロも鍼一発で眠らせることが出来るようになりました。眠らせた魚達は、北米やアジアなど11カ国に輸出されています。

 

 

四川料理の未来を切り拓いた男 陳  建民

第158回で「陳  建民 物語」を放映

料理の鉄人でお馴染み、「中華の鉄人 陳 建一」、実は麻婆豆腐を日本に伝えたのは、「鉄人の父 陳 建民」なのです。

1952年、陳建民氏は中国の四川省から日本へと渡りました。彼は本場中国の辛い麻婆豆腐が日本人の口に合わないと考え、日本の調味料を用いて故郷の料理を作ることに尽力しました。
陳建民氏は辛さを控えた麻婆豆腐を提供し、これが日本人の舌に受け入れられ、徐々に評判を呼びました。その結果、現地とはまた一味違う、家庭料理としての麻婆豆腐が完成したのです。

 

 

針の未来を切り拓いた男 高橋 敏雄

第159回で「高橋敏雄 物語」を放映

昭和22年。その当時の縫い針はイギリス製が世界市場を独占していました。戦争で工場と長男を失った、針メーカーの2代目社長だった高橋はその年に工場を立て直し、イギリスの針に追いつけ追い越せと、高橋は懸命な努力を始めます。

イギリスの針を研究し、縫いやすくする為に針を尖らせることから始め尖らせたことで縫いやすくなった針も、すぐ曲がってしまい使い物にならない。そこで材料を鉄から鋼に変更し、焼き入れ加工を施しました。ところが、そうして硬くした針は、逆に折れやすくなってしまったのです。そこで、焼き戻し加工を施し、硬さと同時に弾力を持たせることに成功しさらに針先の角度を研究し、丈夫で縫いやすい針が完成しました。

高橋は、それだけでは満足せず、研究を続けます。丸かった針穴を縦長の穴に変更し、さらに溝を作ることで縫う時の抵抗を減らしました。この加工をするには、制度の高い加工技術が必要になります。高橋は、その機械の全てを自前で製作し、一連の加工を自動化しました。さらに工夫は続き、針穴を柔らかな金でメッキすることで糸が切れにくくなり、また、床に落とした時に見つけやすいという利点もありました。

こうして出来た高橋の針は、1979年アメリカの販売会社と正式契約、アメリカのシェアの4割近くを獲得することが出来ました。この優れた針の加工技術は、医療の現場の接種針やエアコンの電極針などに応用されています。

 

 

釣り竿の未来を切り拓いた男 大村隆一

第160回で「大村隆一 物語」を放映

釣竿に付けられている丸い糸の通り道、ガイドと呼ばれるパーツです。現在あるガイドを作り上げた人物が大村隆一です。腕時計のバンドを作る会社の社長だった大村は、地元の海岸を歩いている時に、しょっちゅう切れる釣り糸、それが当たり前のように糸を結ぶ人達を目にします。

その原因はガイドにありました。金属製のガイドに対し、釣り糸はナイロン製。でも金属製のガイドは傷付いてしまうのです。傷付かないガイドを作り出すべく、メノウ製、ガラス製のガイドでテストを繰り返し硬さと滑らかさを追求した結果セラミック製のガイドに辿り着きました。

しかし、それでも糸は切れてしまう。その当時、日本に数台しかなかったハイスピードカメラを使い検証、切れる原因は糸が絡むことにありました。糸が絡まないガイドを作る為、ガイドの大きさを研究、当時はガイドが糸に触れないように直径を大きめに作ることが常識でしたが直径の小さいガイドを作り出し糸の絡みを無くすことに成功。糸の切れにくいガイドとして人気になり、飛ぶように売れたのです。

その後、大島はガイドと糸の摩擦熱を少なくする為にシリコンガーバイトをいち早く採用。それは、後にスペースシャトルの外壁に使われるようになる材質でした。現在、大村の作ったガイドは世界中で8割という圧倒的なシェアを誇っています。

 


【編集後記】当時を振り返り

未来創造堂が放映されていた当時、偉人のVTRのナレーションを元にブログにまとめていた文章が上記のものです。中には数行しか書かれていない回もあったので(151,152,158)その回はネットで調べて文章を補足しました。改めて偉人達のエピソードを読むと、現在当たり前のようになっている便利な暮らしは、過去に奮闘した偉人のおかげなんだなってしみじみ思います。