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未来創造堂 第111回~第120回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第111回~第120回で放映された偉人をまとめました。

テニスラケットの未来を切り拓いた男 米山 稔

第111回で「米山 稔 物語」を放映

米山 稔 氏は、ラケットメーカー ヨネックスの創業者です。

人類が初めて月面に着陸して、世界中が沸いていた頃、世界初のアルミ製バドミントンラケットを開発し、バドミントンの世界では頂点に登りつめていました。そんな米山の次の一歩は、ラケットスポーツの頂点テニス!その当時テニスの女王と言われたビリー・ジーン・キングとマルチナ・ナブラチロワ、大胆にもその2人と共に、テニスラケットの頂点に立とうと考えます。

早速、勝手知ったるアルミでテニス用ラケットを作り、キングの元を訪れたところ
「そのラケットでサーブを打つと時速何キロでるの?」スピードことなんて全く考えていなかった米山は愕然とします。女王キングが求めていたのは速い球の打てるラケット。その為に必要なのはスイートスポットの広いラケットだったのです。

スイートスポットは、ボールが一番反発するポイント。ここでボールを捕らえることが出来ればスピードの速い球を打つことが出来ます。ラケットに縦横に張られている糸(ガット)の最も長い糸が重なった部分がスイートスポットです。ラケットを大きくすれば、スイートスポットも広がりますが、その分重くなってしまう。その当時主流だった木製のラケットでは、大きくすれば強度も下がり折れやすくなってしまう。そこで登場したのが、アルミ製のラケットです。アルミによりラケットの大型化に成功しスイートスポットは広がりましたが、そこにも問題がありました。

軽いと思われるアルミでも、ラケット自体を大きくしたのではやはり重過ぎるのです。重さも大きさも変えず、スイートスポットだけを広くしたラケット。そんな相反する条件を満たしたラケットが、女王キングの望みだったのです。

四六時中ラケットを睨み続けた米山は、あることを思いつきます。「ラケットは丸くなくてもいいんじゃないか?」ラケットを四角くすれば、最長の糸が増え理論上はスイートスポットが広がることになる。早速、試作してみたが・・・ 直角に曲げた四隅の部分の強度が低くなり折れてしまいました。何かアルミに変わる素材は無いものか・・米山は考えました。そして目を付けたのが、NASAが宇宙ロケットの開発に採用した新素材「カーボン繊維」でした。

カーボン繊維は、アルミより軽く強度も高いが、アルミに比べれば格段に高価なもの。
他社がアルミでどうにか出来ないか試行錯誤している中、米山の決断は冒険に近いものでした。キングを振り向かせるには、立ち止まっていられない。

米山は奮起します。丸い形の強度を保ちながら、四角にギリギリまで近づける、その為に四隅に微妙なカーブをつける。あらゆる無駄な部分を削り落とし、ついに米山自身が納得するラケットを生み出しました。
このラケットのスイートスポットは、これまでの円形のラケットに比べボール2個分も広がりました。このラケットにキングは大絶賛!カーボン製のラケットは驚きの軽さを実現していました。カーボン製ラケットは約300g、アルミ製約340g、木製約400g木製やアルミ製に比べて格段に軽くなったのです。

同じ選手のサーブのスピードを比較してみると木製では時速181キロに対し、カーボン製では194キロを計測しました。ラケットの重さで、打球にこれ程の差が出るのです。女王の要求に見事答えた米山。女王2人とプロスタッフ契約を結ぶことに成功しました。80年代に入り、女王の名を受け継いだナブラチロワは、米山のラケットで一時代を築きます。ウィンブルドン6連覇、全豪、全仏、全米のタイトルも獲りグランドスラムを達成しました。
その後、テニス界ではスピード時代が到来。女子選手でも時速200キロの壁を越え、男子選手では、アンディ・ロディック(米)が時速249キロを叩き出しています。

 

 

 

ブドウの未来を切り拓いた男 大井上 康

第112回で「巨峰誕生秘話」を放映

時代は大正8年、日本に西洋文化が入ってきた頃。農学者 大井上康は、静岡の伊豆に研究所を構え、新しいフルーツを作ろうとしていました。当時27歳。それは、ヨーロッパ留学中にフランスで食べたブドウ。今まで口にしたことのないその甘さに大井上は魅了されました。
その当時日本にあったブドウは、渋みが強くヨーロッパのものとは大違い。大井上はヨーロッパからブドウの苗を輸入し、静岡の畑に植えてみましたが・・夏場の気温が高く、雨の多い日本では、その苗は瞬く間に枯れてしまいました。ならば、従来からある日本のブドウと輸入した苗を組み合わせればどうか・・当時日本にあったブドウ5品種と世界のブドウ2000種以上。試行錯誤し、その膨大な数の中から、日本産で病気に強い「石原早生」と糖度の高い海外品種「センテニアル」の掛け合わせに辿り着いたのです。

しかし、ブドウの種を植えてから実を付けるまで早くても3年かかります。自分の求める甘さが出たかどうかは、3年経ってみないとわからないのです。掛け合わせを繰り返し、新種のブドウが実ったのは研究開始から18年後。大井上は44歳になっていました。新種のブドウは、今まで見たことのない実をつけました。大井上は直感しました。大きさとみずみずしさは申し分ない。これなら夢に見たブドウが出来る!

このブドウをもっと甘くするには、栽培方法を極めていくしかありません。大井上は、肥料に目をつけ、窒素・リン酸・カリウムを豊富に与えました。どの肥料をどのくらい与えたか、ブドウがどのように育ったかデータを集める日々が続きました。そんな中、太平洋戦争が始まりました。

食料難となった日本は、果樹園の木が伐採され米や芋を作る畑に変わっていきました。大井上の果樹園も軍からブドウの栽培を禁止する命令が下りました。彼はそれに反発し、こんな時代だからこそ甘いブドウが必要なんだと奮起しました。昭和17年、さらなる悲劇がありました。例年にない大雨で、畑にまいた肥料がほとんど流れてしまったのです。

落胆しながら実ったブドウを食べてみると・・・ 甘い!!悲劇と思われた事が、思わぬ結果をもたらしたのです!肥料の与え方を間違っていなのかもしれない・・・甘さを増す為に、肥料を足していくのがそれまでの与え方でした。しかし、逆に不要な肥料を与えなくすることが重要なのでは・・・何度も肥料の配合を変えては試し、ついに完璧な方法を見つけ出しました。苗の時期には、カリウムを全く与えないようにしました。株が成長する時期には、リン酸を全く与えないようにしました。そして、実が成長する時期には、肥料を経つことで甘いブドウに育つのです。※果実をつけたときにカルシウムを与える「栄養周期説」

1から肥料のやり方を変え、大井上はブドウを育て直しました。ブドウを育て続けて27年。大井上54歳の時についに究極のブドウが完成したのです。大粒で甘いそのブドウは、伊豆の研究室から見える富士山にちなんで「巨峰」と名付けられました。巨峰は今や世界中に広まり、アメリカ・南米・アジア各国で「KYOHO」という名で栽培されています。巨峰の糖度は約18度、果物や野菜の中で最も糖度が高いのです。

 

 

ナイフの未来を切り拓いた男 岡田 良男

第113回で「岡田良男物語」を放映

1956年 大阪、岡田良男は小さな印刷会社に勤めていました。印刷会社の仕事は紙の裁断が付き物。その頃の裁断には薄いカミソリの刃が使われていました。この刃は、使っていれば当然切れなくなり捨てられます。でも切れなくなったのは四角い刃の四隅だけ真ん中の刃はまだ使える状態でした。岡田は使い捨てられるそのカミソリが勿体無いと思っていました。そして、切っ先の鋭さがいつまでも鈍らない刃物が作れないかと考えるようになったのです。

岡田は考えだすとトコトンまで追求する完璧主義者でした。いちいち刃を研がなくても切っ先を鋭く保つ方法・・・ヒントは幼少の頃にありました。昔、靴職人は靴底の修理にガラスの破片を使っていました。切れ味が鈍るとそのガラスの先を割り、先端を尖らせ小さくなるまで使っていたのです。

刃を折れば切れ味が蘇る! 岡田の試行錯誤が始まりました。切る時は折れず、折りたい時に簡単に折れて、切れ味を復活させられる刃、刃物の常識を覆す、夢のようなナイフ作りに岡田は没頭しました。

まず作ったのが、カミソリを元にした薄くて長い刃。その刃は、脆すぎて切ってる途中で割れてしまい使い物になりませんでした。それを割れにくくする為にカバーで補強してみました。使ってる途中で折れることはなくなりましたが、刃の切れ味を戻す為に折る時、折れ方がバラバラで折った後の切れ味も散々なものでした。折れりゃあいいと考えていた岡田は、折れ方も重要と思い知らされました。

途方にくれていた岡田にヒントをくれたのは「チョコレート」敗戦直後、進駐軍が子供達にばら撒いていた板チョコです。溝が刻まれていて、その線に沿ってパキッと綺麗に折れる!早速、岡田は刃に溝を刻んでみました。これで刃の折れ方は均一になります。ついに夢のナイフ完成かと思われましたが、ここからさらに緻密な計算が必要になりました。

理想的な刃の厚さ、理想的な刃の幅、理想的な刃の角度。この3つの要素のバランスが鍵、理想的な刃を作り出す為に作業を続けました。勤めていた会社も辞め、ナイフ作りに没頭し、ようやく念願の折れるナイフが完成!

厚さ0.38㎜ 幅9㎜ 角度59度 の刃 構想から3年の月日が経っていました。このナイフで世の中を驚かしてやるぞ~と意気込んだ岡田ですが発売されたこのナイフの売れ行きは驚くほど悪いものでした。折れる刃物という発想が、当時の人達にはすぐに受け入れられなかったのです。

しかし、岡田のナイフはデザイナーや印刷所などで評判を呼びはじめました。丁度、建設ラッシュとも重なり、建設現場などでも重宝されはじめ需要は一気に高まりました。
100カ国以上の国に輸出され、made in japanの完璧なカッターナイフとして愛用されています。発売から50年。その刃は、厚さも幅も角度も当時のまま世界の国のメーカーが全く同じサイズを採用してる事が完成度の高さを証明しています。ブランド名の「OLFA」は「折る刃」をもじって付けられたそうです。

オルファ(OLFA) カッター替刃 スピードブレード(大) 20枚入り クリップ付き新替刃ケース 折る刃式カッターナイフ替刃 大型刃 LBSP20K

 

はかりの未来を切り拓いた男 池田 哲雄

第114回で「池田哲雄物語」を放映

京都の老舗秤メーカー石田、その開発部に池田哲雄は所属していました。1972年1月、池田達は新型の秤の開発を命じられます。それは、ピーマンの自動計量機。ピーマン1袋150g、その当時のこの袋詰めは全て手作業で行われていたのです。その手間と詰め過ぎを無くしたい、という高知県のとある農協からの依頼でした。

大きさが均一な物なら測るのは簡単ですが、ピーマンの大きさはバラバラ池田達は、あらかじめピーマンを大きさ事に分け、均一にしてから量る方法を考えました。大きいピーマンと小さいピーマンを分け、別の投入口から入れて機械で調整し量る。試作機を持って農協へ行った池田ですが・・機械に入れる前に手で測るなら、はなから手で測ります!と激怒されました。池田は返す言葉もありませんでした。

何一つ打開策を得られないまま時間だけが過ぎていきました。半年が過ぎ、池田はワラをもすがる気持ちで、農協の作業現場に出向きました。そこでは農家のおばちゃんが黙々とピーマンを袋詰めしていました。熟練のおばちゃんでも1分間に量れるのはせいぜい4袋でした。その作業を見ていた、池田はあることに気付きます。おばちゃん達の手の動き!1個ずつではなく、何個かまとめて秤に乗せている・・・おばちゃん達は、長年の勘で合計150gになる組み合わせが分かっていたのです。

おばちゃん達のこの技を機械化すればいける!複数のピーマンを別々の秤で量り、合計150gになる組み合わせを見つける。では、同時に何個のピーマンを量ればいいのか、池田達は実験を重ねました。一度に量る数が少ないと、どう組み合わせても150gにならない時がある。ピーマンを量り、計算を繰り返して、何個なら大丈夫か調べました。そして、8個同時に量れば150gの組み合わせが必ずあるという結果が出たのです。

8個の秤を円形に並べて、ピーマンを同時に量る。その中から150gになる組み合わせをコンピューターで選び出す。目指す機械のイメージが出来、その製作が進められました。こうして、「組み合わせ式ピーマン自動計量機」完成しました。手作業では15秒で1袋だった作業が、1秒に1袋という早さになりました。開発から1年、ついに試作機を披露する時が来ました。次々に袋詰めされていくピーマン、5分間で300袋も袋詰めされその全てが150gという結果を得ることが出来ました。この組み合わせ式自動計量機は、日本だけでなく世界中が待ち望んだ物でした。あらゆるニーズに答え、進化し続けたこの機械は、現在世界で70%ものシェアを誇っています。

 

 


メロンの未来を切り拓いた男 杉目 直行

第115回で「夕張メロン誕生秘話」を放映

メロンのブランドとして有名な「夕張メロン」を作った人のお話です。昭和30年代、石炭が採れる炭鉱のあった夕張は、札幌よりも賑わう文化都市でした。その一方、農家は極貧に喘いでいました。その理由は夕張の土地、火山灰質で春になっても氷点下という劣悪な環境だったからです。その農村を何とかしようと奮起した人が杉目直行です。

杉目は夕張ならではの特産品を作ろうと考えます。真っ先に目を付けたのが「スパイシー」という品種の果肉の赤いメロン。このメロンは古くから夕張で栽培されていました。中近東が原産のメロンは、水はけの良い土地でよく育ちます。火山灰質の夕張の土地は痩せてはいたものの、水はけは抜群に良かったのです。しかし、このスパイシーは地元でも砂糖をかけて食べる程甘みの無い物でした。

このメロンを甘くするには・・・杉目の先輩である技術者 伊藤正輔に助言を求めました。伊藤はメロンの品種改良に取り組んだことのある経験者迷う事なく「アールスと掛け合わせることだよ」と答えたそうです。「アールス」とは、甘み抜群で表面の網目模様が高級感を漂わせている品種。しかし、このアールスは極端に寒さに弱く、北海道の栽培は難しいとされていました。

杉目はこの可能性に賭けました。寒さに弱いが甘み抜群の「アールス」と寒さには強い「スパイシー」この2つの掛け合わせが成功すれば、きっと夕張特産メロンが生まれる!

そこから杉目の戦いが始まりました。2種類のメロンを掛け合わせ種を取り、大敵である寒さを防ぐ工夫をしました。種を腹巻に入れて発芽させ、風避けの新聞紙で苗を守りました。こうして昭和36年に「夕張キング」が誕生しました。後の「夕張メロン」です。

完成したこのメロンの甘さは抜群!これまでにないトロリとした食感、赤い果肉も新鮮でした。しかし、出来上がったメロンは、味のバラ付きが目立ちました。「青果物は芸術品ではない、あくまで商品である」杉目のノートにはそう書かれていました。悩んだ杉目は、甘さの基準を設け、その基準を超えなければ出荷しないと決めました。

この基準に農家の人に文句を言われても、杉目は一切妥協しませんでした。メロンの甘さを決めるのは昼と夜の寒暖の差、その理想は10℃と言われています。杉目は農家の人々に温度管理を徹底させ厳守することを求めました。昼は、ビニールハウスに風を入れ温度の上がりすぎを防ぎ、夜は毛布を持ち込み3時間おきに温度をチェック、その一方で杉目はメロンをランク付けし、シビアな品質管理を徹底しました。

目指すは東京築地市場、夕張メロンの食べ頃は収穫から3日後です。その当時、夕張から東京まではトラックで2日かかりました。なんとか届けられると考えましたが、夏の本州の暑さには耐えられませんでした。空輸をすればコストはトラックの5倍かかります。でも、コストが高くなっても品質を優先することを決めたのです。折りしも時代はエネルギーの転換期、石炭の時代は終わりを迎えていたのです。だからこそ、メロンで勝負しなければ。杉目の言葉がみんなの背中を押しました。

昭和46年、築地市場 かけそば1杯100円の時代に夕張メロンは1個800円でした。高額の値段に市場の人も驚きましたが、その一級品の味にさらに驚かせました。丁度食べ頃のタイミングになるように、飛行機で運んだ結果でした。これに目を付けたのが一流百貨店。高級な季節の贈答品として扱いたいと申し出ました。しかし、メロン農家は納得できませんでした。百貨店に並ぶと食べ頃の時期が過ぎてしまうからです。

そこで考え出された答えが、収穫したメロンを直接送る「産地直送」、こうして実物を見ないで販売する「産地直送」という新しいシステムが出来たのです。全てが均一で確かな品質の夕張メロンだからこそ、このシステムが可能だったのです。こうして、夕張メロンはブランド商品として不動の地位を獲得したのでした。

 

 

花火の未来を切り拓いた男 本田 善治

第116回で「本田 善治 物語」を放映

新潟県小千谷市片貝町、人口約5千人の小さな町ですが毎年9月に行われる「片貝まつり」の時はお祭り騒ぎとなります。この祭のハイライトは、神様に奉げる「奉納花火」花火には色々な祈りが託されます。片貝町は、三尺玉花火(直径約90㎝)の発祥の地と言われています。三尺玉花火は、世界最大の花火を誇っていたのですが・・・昭和55年、東京の業者が三尺三分玉(直径約91㎝)を打ち上げ世界一をアピールしました。この時、片貝まつりの実行委員長を務めていたのが本田善治です。

過疎に悩む片貝町、この出来事で花火に掛ける町民の情熱まで奪われた気がしました。花火命の本田は、世界一奪還を目指し立ち上がりました。本業の旅館経営を投げ打って世界一の花火作りを始めたのです。他を寄せ付けない程の大きさ「四尺玉花火」(直径約120㎝)を目指しました。この当時、三尺玉でさえ成功する確率は6割程度しかなかったのです。四尺玉なんて絶対無理と周囲の者は思いました。重さ約600㎏の玉を高さ350m付近まで飛ばさなければいけません。当時の火薬の威力では不可能と考えられていました。

しかし、本田は花火作りに没頭、火薬の量を調整し少しでも玉を軽くしようと考えました。成功か失敗か、花火は実験する訳にはいきません。本番一発勝負にかけました。昭和59年、本田の四尺玉は完成します。その重さは420kgまで抑えることが出来ました。

そして、本番の片貝まつり当日・・・ 満を持して点火スイッチON!花火は空に上がらず、途中で爆発してしまいました。この日の為に1年頑張ってきた本田、この失敗でも諦めませんでした。失敗した原因と考えられたのは「玉の弱さ」筒の中の打ち上げ火薬の威力に負けて、筒の中で爆発してしまったのです。本田は玉に貼る紙の貼り合わせ方に知恵を絞りました。500枚程度だった紙を、数千枚にまで増やし玉の強度を上げたのです。そして、前回の失敗から1年後、昭和60年9月、本田の思いを詰め込んだ四尺玉花火は、空高く舞い上がり見事大輪の花を咲かせたのです。その大きさは、見上げる者全員を圧倒するものでした。これこそ世界一!片貝の四尺玉は海外向けのメディアでも取り上げられ注目されました。今やその活躍の舞台は世界に広がっています。

 

 

ボールペンの未来を切り拓いた男 井上 繁康

第117回で「井上 繁康 物語」を放映

筆記用具の王様ボールペン、1943年に開発されたボールペンは進駐軍と共に日本に持ち込まれ、万年筆や鉛筆に代わる筆記用具のベストセラーになりました。しかし、油性ボールペンには弱点があったのです。「油性インキでは綺麗な色が出せない。」「書き出しがどうしてもかすれやすい。」そんなボールペン業界に参入しようと考えたのがサクラクレパス、誰もが知ってるクレパスを世に送り出した画材メーカーです。サクラクレパスは色の美しさにトコトンこだわって世界に認められていました。綺麗な色のボールペンを作ろうと考えたのです。その研究開発チームの中に井上繁康はいました。

開発を始めた1981年当時、ボールペンのインキには水性と油性がありました。水性は油性に比べ書き味が滑らかで、色の発色も良かったのですが紙によってはにじみが出てしまう弱点がありました。色を大切にする井上は、水性インキをベースににじまないインキ作りに取り掛かりました。

クレパスを作っているから色には自信がありました。クレパスに使っている顔料は岩石などの鉱物を材料としたものそれを水に溶かせば、綺麗なインキが出来上がる!そう考えました。しかし、顔料は水に溶けず、分離してしまうのです。顔料は水には溶けないが、まんべんなく混ぜ合わせれば色は出る。そこで思いついたのが「ネバネバした液体」粘り気があれば、顔料は分離することなく混ざるはずと考えたのです。井上たちは、ネバネバを求め卵の白身や生クリーム、とろろまで色々な材料を試しました。予想通り、顔料はまんべんなく混ざり合いました。しかし、ネバネバのインキはとても使い物にはなりませんでした。

ボールペンはペン先で回転するボールにインキがのる事で色を出しています。ネバネバのインキだとペン先に詰まってボールが動かなくなってしまうのでした。色を出すにはネバネバ、書き味を良くするにはサラサラ相反する要素をどうやって1つにすればいいのか・・ 開発は行き詰ってしまいました。

ある日、ゼリーを食べている後輩を見て井上は閃きました。寒天は、熱を加えている時はサラサラで冷やせば固まる。なんらかの刺激でネバネバからサラサラにサラサラからネバネバに状態が変化するものそういう液体を探し出し、それを使えば上手くいくと考えました。でも、そんな理想の液体に辿り着くことは出来ませんでした。悪戦苦闘の日々は、開発開始から2年も経っていました。

所詮は無理だったのか・・と諦めかけていた時、井上は、たまたま見ていた工業新聞に気になる記事を見つけます。普段はネバネバで攪拌するとサラサラになる「キサンタンガム」という不思議な素材でした。液体にとろみを与える天然の多糖類で、乳液などの化粧品に使われているらしい。井上はワラにもすがる思いで、キサンタンガムを取り寄せました。

キサンタンガムは攪拌によって分子の結びつき方が変化するというものでした。瓶に入れ振ってみるとサラサラに、止めるとネバネバになりました。ペン先のボールは、普通の早さで10㎝の線を書く時に64回転します。F1のタイヤが毎秒40回転というから、それ以上の勢いです。この回転が攪拌と同じ作用をして、ネバネバがサラサラに変わります。通常ネバネバな液体は顔料とまんべんなく混ざり発色も申し分ありません。そして、水性インキの弱点であったにじみも克服、顔料を使っているので、どんな紙でもにじむことはありませんでした。まさに理想のインキの誕生!井上達は、鮮やかな色を出すボールペンの開発に成功したのです。

「ゲルインキ」と名付けられた革命的なこのインキを使い1984年「ボールサイン」が発売されました。ゲルインキを使ったボールペンは、油性ボールペンに迫る大ヒット商品になりました。その人気は海外でもうなぎのぼり、年一億本を越える量が輸出されています。

 

 


ネジの未来を切り拓いた男 若林 克彦

第118回で「若林 勝彦 物語」を放映

バルブメーカーの設計士だった若林克彦、当時25歳。工業製品の国際見本市で見た「緩まないネジ」が運命の出会いでした。そこで見た緩まないネジは、どれも子供だましだったのです。自分ならもっとキッチリ締まるネジを作れる・・・若林はナットに板バネのついた開発し成功し独立!その製品は振動の多いベルトコンベアーなどに採用されました。

鉄道オタクだった若林は、揺れると言えば鉄道と鉄道会社に売り込みを掛けます。しかし、鉄道会社からはベルトコンベアーと一緒にしないでくれと相手にしてもらえません。またこの頃、若林のネジを使った削岩機や杭打ち機で緩みのクレームが多くなりました。長時間の振動で板バネがダメになってしまうのが原因でした。この時、若林は思い知ります。緩まないネジを作るということは、絶対の安全を作るという事だと。

絶対に緩まない作り出そう頭を悩ませていた若林。ヒントを得たのは「鳥居」でした。鳥居には古代建築の技法「くさび」が使われています。素材と素材の間に打ち込みしっかり固定させるものがくさびです。ネジとナットの間にくさびを打ち込めばネジはビクともしなくなる!これまで誰もやったことのないやり方、若林は早速ネジを作り鉄道会社に持ち込みました。

確かにこれでネジは緩まなくなったのですが・・・いちいちくさびを打ち込むのに手間がかかること、一度打ったら緩められす、保守点検が出来ないことを指摘され、採用されませんでした。鉄道には保守点検が付き物、安全の面からも簡単に緩められないと意味がなかったのです。若林は諦めず、くさびの考えをさらに深いものにしていきました。

思いついたのが、「ナット自体をくさびにする事」若林は、凸と凹2種類のナットを作りました。凸がくさびの働きをするナット、凹がそれを受け止めるナットというわけです。しかし、このままでは凹のナットが押し広げられ緩む可能性があります。そこで凸凹を逆に、凸を下にし凹のナットを上から被せるような仕組みにしました。こうすることで、上の凹ナットが下の凸ナットを締め付けることになり両方のナットが緩みにくく、緩める時は簡単に緩むという理想的なナットが出来ました。

独立から16年経った昭和49年 絶対に緩まないネジ「ハードロックナット」の完成です。世の中は新幹線の時代、このネジを新幹線にと若林は売り込みました。その採用に、過酷なテストが突きつけられました。ネジの開閉を30回行い、ある程度劣化させたうえで、震度7に相当する振動に17分間耐えるというテストこれはNASAが宇宙ロケットの部品に課している基準と同じでした。二つのナットにあらかじめラインを引き、テスト開始、緩んで外れたら問題外、ラインがちょっとでもズレたら不合格となります。若林のナットは、見事このテストに耐え、基準クリア!もちろんラインはそのまま、その上1時間の振動にもビクともしませんでした。

どんな振動にも負けないハードロックナットはオーストラリア「クイーンズランド州鉄道」や「中国高速鉄道」にも採用され世界の鉄道の安全を支えているのです。

 


クリーニングの未来を切り拓いた男 山田 幸雄

第119回で「山田幸雄物語」を放映

1995年 千葉県でクリーニング店を経営していた山田幸雄が本日の主人公です。当時、即日仕上げに力を入れドライクリーニングで売り上げを伸ばしていました。19世紀末にフランスで生まれたドライクリーニング。水洗いだと型崩れしてしまう衣類を、石油系の溶液に浸すクリーニング方法です。油汚れには強いけど、水溶性の汚れ(汗ジミ)には滅法弱いのです。ヨーロッパと違い高温多湿の日本、衣類に付着する汚れは汗ジミのものがほとんど・・・この為、汗ジミがほとんど落とせす、お客からのクレームも沢山あったのです。

日本では日本にあった洗い方をしなければダメだ!山田は、汚れとは何か基本から研究を始めました。ドライクリーニングでは、石油溶剤の分子が繊維に付いた油汚れの分子を吸い取ります。しかし、汗ジミの汚れには効果を発揮しません。一方、洗剤を使い水洗いをすると、油汚れも汗ジミもどちらも落とす事が出来ます。この時、汗ジミを落としているのは水に含まれるミネラルの粒子ということに気付いたのです。

でも、水洗いには大きな問題がありました。ミネラルが汗ジミを落とす時に繊維のキューティクルも傷付けてしまうのです。その結果、衣類は見るも無残に型崩れ・・・そこで、ミネラルを一切含まない精製水で洗ってみました。洗い終わっても型崩れしていない。だけど汚れは全然落ちませんでした。

汚れを落とし繊維を傷付けない。適度なミネラルを含む水。そんな理想的な水は無いものかと、山田は全国の水を見て回りました。鍵はミネラルの含有量。ミネラルの量は硬度で表されます。ちなみに、ミネラルたっぷりの「エビアン」は硬度304、一般の水道水の硬度は60です。エビアンに比べれば低いですが、60でも洗うには硬度が高すぎるのです。ようやく山田が辿り着いたのは、屋久島の天然水でした。その硬度は10。水洗いに最適なミネラルの量、さらにミネラルの粒子が水道水の1/10と小さかったのです。これなら、繊維を傷付けるだけでなく、繊維の細部に水が行き渡り汚れもよく落ちます。

山田は、屋久島の水を再現する為に仕事場の裏に井戸を掘りました。その天然水を何度も何度も濾過を繰り返しました。名付けて「磨き水」こうして山田は、型崩れしない水洗いの方法を見つけ出しました。これはクリーニングの歴史の中で革命とも言える出来事でした。

ところが、どうしても油汚れが落とせなかったのです。水洗いだけでは油は落とせないのかと落胆しましたが、山田は諦めませんでした。大学教授など専門家を訪ね歩き、ある情報を見つけることが出来たのです。船乗りは油まみれの衣服を洗う時、網に入れて船の後ろに流したというヒントは泡でした。細かな泡は繊維の隙間に入り込み油汚れを弾きます。油汚れにぶつかった泡は破裂してすぐ割れてしまうから繊維を傷付けることもない。

山田は、洗濯機メーカーと協力し超微細な泡を生み出す洗濯機を作りだしました。直径1/100㎜にも満たない泡を作り、水だけで油汚れを落とすことに成功したのです!莫大な開発費をかけた為、一般のお客には受け入れられなかったこのクリーニングですが1997年 アメリカで行われた世界クリーンショーで注目されイタリアの高級ブランドや、日本の高級百貨店などの顧客サービスとして採用されました。

 

 

ボクシングの未来を切り拓いた男 杉林 郁夫

第120回で「杉林郁夫物語」を放映

福島県 二本松市にある「株式会社ウイニング」世界に誇れるボクシンググローブを作っているメーカーです。このウイニングの2代目が杉林郁夫氏です。

1988年、人気・実力共に日本一と言われたボクシング界のスーパースター浜田剛史が27歳という若さでボクシング界から去ることになりました。その原因となったのがハードパンチャーゆえの「拳の骨折」でした。

浜田だけでなく、拳の骨折で苦しむ選手は沢山いました。拳の骨折はボクシング界全体の悩みの種だったのです。「なんとかならないか?」との現場の声に杉林は奮起しました。元々は素手の殴り合いから始まったボクシング。スポーツとなりグローブをはめて戦うようになりました。相手にダメージを与える為に付けるのではなく、自らの拳を守る為に生まれた道具です。

グローブのクッション材には、馬や羊などの毛が使われてきました。これは、グローブが生まれて300年間変わりませんでした。馬毛のグローブは攻撃力が強い反面、使い続けるとクッションが薄くなります。このクッション性の低さが拳の骨折の原因となっていました。それならば、グローブのクッション性の高いグローブを作ればいいのでは・・・そこに立ちはだかったのが、ボクシングの規定です。

グローブは階級に合わせて厳しく重さが決められていてスーパーライト級以下は227g(8オンス)ウェルター級以上は284g(10オンス) 1gの誤差も許されません。杉林は重さの規定を満たし、かつクッション性の高い素材を探しました。辿り着いた素材は「スポンジ」でした。スポンジは衝撃を加えても元に戻ろうとする力が大きく、クッション性に優れています。杉林はスポンジを使い、全く新しいボクシンググローブを作りました。これはボクシンググローブ300年の歴史の中で革命とも言えることだったのです。

期待をこめて作ったグローブでしたが、現場の声は冷たいものでした。ボクサーは強いパンチを打つ為に、パンチの当たる瞬間にグッと拳を握ります。スポンジ性のグローブでは、スポンジの反発力が強すぎて拳が握りにくかったのです。クッション性に加え、握りやすさを考えなくてはならない。改良を重ねるうちに、2種類のスポンジがあることに気付きます。空気が外に逃げない為に硬い、独立気泡スポンジ ウェットスーツなどに使われています。そして、食器洗い用などのスポンジ、空気が逃げる為に柔らかい、連続気泡スポンジ この2つです。

杉林はこの2つのスポンジを組み合わせ、クッション性、拳の握りやすさ、規定の重さ、この3つの条件が揃う絶妙のバランスを探しました。現場へ出向き、改良を重ねること2年。二つのスポンジをミリ単位で削り、全ての条件をクリアしたグローブが完成しました。

1990年の大橋秀行選手の世界タイトルマッチ世界タイトルで初めて杉林のグローブが使用されたのがこの時です。その後、日本人で世界チャンピオンになったのは27名。杉林のグローブを使い、世界戦で拳を骨折したのは、わずか1名。その安全性が実証されました。さらに、世界の名立たるチャンピオン達が杉林のグローブを愛用しています。

 

 

【編集後記】当時を振り返り

このまとめは、未来創造堂の番組後半で放送された偉人のVTRのナレーションを端折って文字に起こしたものです。映像もあればもっと分かりやすいのですが、この文章でも偉人のコダワリや苦労は分かるはずです。今回の10人の偉人もそのコダワリを実現するためにトライ&エラーの繰り返し、この偉人たちの苦労があって今の技術があると思うと頭が下がります。