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未来創造堂 第81回~第90回で取り上げられた偉人

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第81回~第90回で放映された偉人をまとめました。

鶏肉の未来を切り拓いた男 海部兄弟

第81回で「海部兄弟物語」を放映

名古屋コーチンを作り出した兄弟のお話。名古屋コーチンが生まれたのは、明治38年なんですって!結構古い歴史があるんですねぇ 知らなかったです。
徳川300年の歴史が終わり、時代は明治維新、武士だった海部壮平と正秀の兄弟は将来に不安を感じていました。彼らのいた尾張藩では、僅かながら養鶏を手掛けていて、兄弟は、本格的に養鶏をやってみようと決めます。
そして、愛知県に大養鶏場を作り、1千羽の地鶏を飼育できるようにしました。しかし、鶏が伝染病にかかり、全滅してしまうという災難に襲われます。
「病気にも強い、丈夫な鶏を作ろう!」そうして、外国の鶏を色々掛け合わせていきました。中国の鶏「バフコーチン」これと配合して生まれた鶏「ウスゲ」この「ウスゲ」こそが名古屋コーチンの原型!
海部兄弟は、改良を加え「ウスゲ」の量産に成功します。それが全国に広まり、明治38年、実用鶏種第一号「名古屋コーチン」と認定されたのです。

 

 

お菓子の未来を切り拓いた男 松尾 孝

第82回で「かっぱえびせん誕生秘話」を放映

カルビーの「かっぱえびせん」カルビーといえばポテトチップスのイメージが強いですが、最初に作られたのは「かっぱえびせん」なのです。
戦後の日本、栄養不足が深刻で脚気や結核で苦しむ子供達がたくさんいました。そういう子供達の為に、栄養価の高いお菓子を作り出しました。そのお菓子が「かっぱあられ」栄養価の高い小麦を材料にあられを作り、その上に水飴をかけた物だったそうです。
1960年に入り、今度はカルシウム不足が問題になります。当時のお菓子は、糖分・炭水化物のカタマリのような物。カルシウム入りのお菓子を作る為に松尾氏は奮起します。そこで思いついたのが、子供の頃に食べた海老の天ぷら。海老を殻ごと磨り潰し、かっぱあられの材料に練り込みました。
出来上がったあられは、美味しいのですが水飴のせいで多くは食べれません。たくさん食べれなければ、カルシウム不足は補えません。そこで、味を塩味に変え、食べやすい形を考え、5cmのスティック状のアラレにしました。1964年、かっぱえびせんの試作品は完成しましたが・・・日本では全く売れなかったのです。
ブレイクの火付け役になったのは、なんとアメリカ。ジョン・F・ケネディ大統領が推進した健康増進政策で健康ブームになっていたアメリカ。そのアメリカで開かれた、お菓子の見本市で、「かっぱえびせん」が大絶賛されたのです。
その後、アメリカからの注文が殺到して、日本でのブレイクに繋がります。

 

カルビー かっぱえびせん 77g×12袋 カルシウム えびせん やめられない とまらない

 


ホイッスルの未来を切り拓いた男 野田 員弘

第83回で「野田員弘物語」を放映

スポーツの審判が吹くホイッスル。ワールドカップ等の世界大会で使われているホイッスル日本製だって知ってました?そんな世界に認められるホイッスルを作った人が野田員弘氏です。
時は1968年、安くてしっかりした日本製品を求めて海外から多くのバイヤーが訪れていました。その当時、野田氏はハーモニカを作り海外へ輸出をしていました。そんな中、日本にはろくなホイッスルがないという言葉を聞きハーモニカもホイッスルも同じ鳴り物 ひょんなことからホイッスルを作ることになります。

その当時のホイッスルで世界一のシェアがあったのがイギリスのアクメ社。野田氏は、そのアクメ社の製品を目標にして独自のホイッスルを作り上げます。安くて仕上がりも綺麗なことから、野田氏のホイッスルは全米各地から注文殺到になります。しかし、スポーツ専門のバイヤーから、こんな音では使い物にならないと言われ、音にこだわったホイッスルを作ることを決意。吸い口の角度や、中に入っているコルクの質等、色々な点を見直しました。苦労のすえ完成したそのホイッスルは、ドイツで開かれた見本市で認められパリ警視庁を皮切りにフランス国家警察に正式採用されました。
その笛が本人の知らないところで海を越え、サッカーワールドカップ、メキシコ大会で使われていたそうです。
世界に認められた野田氏のホイッスル。野田氏の元に一通の手紙が海外から届きました。「あなたのホイッスルを譲っていただきたい。」目標としてきた、アクメ社からの手紙でした。今では、1500万個もの野田氏のホイッスルが海を渡っています。

 

 

保冷剤の未来を切り拓いた男 鎌田 泉

第84回で「アイスノン誕生秘話」を放映

風邪を引いて熱が出た時、誰もがお世話になったことがあるアイスノンを作り出した人物が、鎌田 泉氏です。「物作りのヒントは、必ず自分の手の届くところににある!」それが、鎌田氏の哲学
いつまでも冷たさを持続させられる氷枕を作ろうとしていた鎌田氏がひらめいた物は「葛湯」冷めにくい葛湯は、冷たさも持続するのではないかと思ったそうです。その理論は、ずばり当たりました。しかし、腐りやすい葛湯使って製品にするのは不可能。ドロドロした物なら同じ効果が得られる筈、色々な物を手当たり次第に試します。そしてようやく辿りついたのが「洗濯糊」でした。洗濯糊を研究し、その主成分だったポリビニルアルコールを原材料として1965年(昭和40年)にアイスノンが完成しました。

 

アイスノン アイスノンソフト 【冷たさ長持ち10時間】 ブルー 1個

 

 


野菜の未来を切り拓いた男 永田 照喜治

第85回で「永田照喜治物語」を放映

「永田農法」という、野菜の独特な育成方法を見つけ出した人物です。その方法は、「スパルタ農法」とも言われていてギリギリの肥料とギリギリの水分で育てるというもの。その考えに至ったのは、荒地に育つみかんの木との出会いからでした。荒地に育つ、そのみかんのほうが美味しかったのです。「植物は痩せた土地のほうが美味しく育つんじゃないか?」その考えを元に、独自の農法を完成、豊かな味のみかんを作ることに成功しました。
その農法は、荒地でも美味しい作物が出来ると評判になり沖縄の荒地でトマトを作ってくれないか と依頼されます。永田氏は、その荒地をあえて耕さず、ビニールで囲いました。まわりの人は、その行動を見ておかしいんじゃないかと思ったそうですが、その方法で出来たトマトは最高の物でした。
その秘密は、びっしりと生えた毛細根ギリギリの環境におかれた植物は、自らの遺伝子を残す為に栄養価の高い果実を残せるように育っていくということなのです。
普通のトマトは水に浮きますが、永田農法のトマトは沈むそうです。それだけ密度が高いということです。甘さは通常の数倍、ビタミンCは30倍という違いがあるそうです。

 

永田農法・驚異の野菜づくり (宝島社新書 195)

 

 

エレベーターの未来を切り拓いた男 水口 宏昭

第86回で「水口宏昭物語」を放映

台湾の首都・台北にある高層ビル「台北101」このビルの高さ508mで現在世界一!ギネス記録にもなっています。このビルの展望台に続くエレベーターの速さもギネス記録なのです。その速さ60.6km/h! 1階から10階までを約4秒で上がる速さです。その世界一のエレベーターを作り上げた人が、東芝 水口宏昭氏です。
東京・池袋のサンシャイン60のエレベーターの速さは36km/h横浜のランドマークタワーのエレベーターの速さは45km/h後発で実績の無い東芝では、速いエレベーターは作らせて貰えませんでした。しかし、水口氏はいつか高速エレベーターを作る時が来ると信じエレベーター研究搭を作り、日々研究を進めていたのです。そこに目を付けたのが、台北の高層ビル、東芝は見事受注に成功します。しかし、ビルのオーナーの要求は、世界一のスピードはもちろん床にコインを経てても倒れない、全く揺れないエレベーターだったのです。無理難題を押し付けられた水口氏ですが「限界に挑み、限界を超えた時、初めて新しい技術が生まれる。」これを技術発展のチャンスと考え、様々なシステムを開発します。流線型のカゴ、ゆがみの無いガイドレール、能動的制振装置、気圧制御システムこれらの技術を注ぎ込み、2004年12月31日 世界最高のエレベーターが誕生しました。これらの技術は、東京ミッドタウンなどにも活かされています。

 

 

駅弁の未来を切り拓いた女性 阿部 静子

第87回で「いかめし誕生秘話」を放映

評判の高い駅弁、「いかめし」を作った女性、それが阿部静子さんです。いかめしが誕生したのは、北海道森町。昭和16年の事です。森町にある旅館で女将をしていた静子さん。戦争が始まり、食糧難の中戦地に向かう兵隊さん達の弁当を作っていた静子さんは「少ない量でもお腹一杯になるようなご飯を食べさせてあげたい。」と思い、試行錯誤します。簡単で腹持ちがいいのは「おにぎり」米は少なく、具のいっぱい入ったおにぎりを作ろうと試行錯誤しますが、どれもイマイチ。そんな時に旅館業と平行してやっていた水産の仕事でイカの仕入れに失敗、大量のイカが手元に残るという不運に見舞われました。食糧難の時代に、大量のイカを捨てるのは勿体無い。 おにぎりの具に出来ないかと考えます。イカの煮物を作り、おにぎりに入れてみましたが、やはりイマイチ・・
ここで諦めていたら、いかめしは誕生しませんでした
逆転の発想で、ご飯をイカの中に入れてみようと思いつきます。イカにご飯を詰め、それを煮込んでみたところ1膳のご飯で、4杯のいかめしが出来上がりました。しかし、味が水っぽかったのです。そこで、炊いたご飯ではなく、生の米から煮込むことで水っぽさを解消。さらに、もち米を足すことでモッチリ感も出しました。こうして、「いかめし」が誕生しました。昭和16年に駅弁としても売り出されるようになり、現在に至ります。

 

 

ハーモニカの未来を切り拓いた男 真野 一太郎

第88回で「真野一太郎物語」を放映

1947年、敗戦国となった日本を統治していたGHQは、全国の楽器メーカーに通達を出します。「小学生用のハーモニカを200万本用意せよ」庶民に親しまれてきたハーモニカを、小学校の音楽教育に役立てようと考えたからです。この通達に奮い立ったのが、真野一太郎氏です。
トンボ楽器製作所の2代目だった真野氏は、大量のハーモニカを全国の小学校に納品しました。ところが、そのハーモニカはすぐ音が出にくくなるというクレームを受け大量に返品されました。「すぐに音の出なくなるハーモニカを売るなんて 信用問題だ!」その原因はリード。ハーモニカはこのリードの振動によって音を出しています。ハーモニカの命ともいえるデリケートな部分なのですが子供達は、そんなことはお構いなしに強く吹いたり吸い込んだりそれによって、リードが曲がり音が出なくなっていたのでした。
リードを強くする方法は、「焼きなまし」しかありません。焼きなましとは、金属を熱した後ゆっくりと冷まし強度を上げる技法です。しかし、強度を上げると音色が悪くなってしまう。音色をとるか、耐久性をとるか、真野氏は選択を迫られましたが音と耐久性、両方を兼ね備えたリードを作ることを決意!「最適な焼きなましの温度と時間」それを見つける為に何度も実験を繰り返します。地道な作業を続けた末、ついに曲がらないリードを完成させたのです。この時の焼きなましの温度や時間は、今も変わらぬ企業秘密となっています。こうして、真野氏のハーモニカは全国の小学校に納品され、子供達の信用を取り戻しました。耐久性はもちろん、その音色は世界にも認められています。
そのキッカケとなったのは1982年。世界的なハーモニカ奏者リー・オスカーが来日した時の事、偶然耳にしたトンボのハーモニカの音色に魅せられ、自分専用のモデルをオーダーしたのです。これは今でも、リーオスカーモデルとして生産されています。海外の一流ミュージシャンがこぞってトンボを使うようになり、トンボは世界的メーカーとなりました。

 

 

まんじゅうの未来を切り拓いた男 林 虎彦

第89回で「林 虎彦物語」を放映

肉まん、あんまん、アンパン等の包み物を製造する機械を開発した人、林虎彦氏の話です。
菓子職人だった林氏は、和菓子作りは単純作業の繰り返し、この作業を機械化できないかと考えます。機械化できれば、その分の時間を新しいお菓子の創造に使えるからです。色々試作してみるものの、相手は柔らかくてベトベトと粘り気のあるアンコ。上手くいきません。林氏の研究は、ついに物理学に向かいます。そこで見つけたのが「レオロジー」流動学です。
それまで型に入れて力を加えて丸めようとしてきたがドロドロ、ネバネバした物は、逆に力を加えないことも重要ということに気付きます。その為には、材料が機械に接する時間を短くすればいい。人間の手の平のように、材料をコロコロと回せるような機械の開発を目指します。その開発を続け、「自動包あん機」が完成したのは、開発を始めてから10年目のことでした。その構造、包み込まれる仕組みは、まさに研究の賜物でした。林氏の研究はさらに続いて、包み込む物ならなんでも作れる機械を開発しました。この機械は、世界106カ国に輸出されていてロシアのピロシキ、中国の月餅等の生産にも役立っています。また、アイスクリームの入った「雪見だいふく」、ゴマダレの入ったまんじゅう等、人の手では、絶対作れなかった物がこの機械で作れるようになったのです。

 


野球場の未来を切り拓いた男 野田 誠三

第90回で「甲子園球場誕生秘話」を放映
大正時代、日本は野球ブームに沸いていました。なかでも人気が高かったのが「全国中等学校優勝野球大会」現在の高校野球全国大会です。その第9回大会の時に観客がグランドに溢れ、野球が出来ないというハプニングが起こりました。この問題を解決すべく、大型野球スタジアムの建設が計画されます。その設計をした人物が、野田誠三氏です。

来年の大会に間に合わせる為、その設計期間は、わずか3ヶ月。その当時、アメリカではヤンキースタジアムが完成していましたが旅客機も無い時代、船で視察に行っていては間に合いません。その設計図も手に入らなかったのです。
「どんなことでも計算すれば答えはわかるはずや!」と、野田氏は何の資料も無い状態で一から設計を始めました。どこからもプレーが見れるように、それまでは四角が主流だった球場を扇型に。椅子に座った人間の座高や胸の高さを測定し、客席に段差を作りそれをゆるやかなすり鉢状にしました。このすり鉢上の観客席は、最新の球場にも採用されています。
球場の設計は順調に進むものの、1つの問題にぶつかりました。グランドの土です。グランドの土のことは、選手に聞いてみるしかわかりません。選手の意見を聞き、ボール見やすく、イレギュラーしにくく、走りやすい土を探すことにしました。全国の土を見て回り、理想的な土を見つけだしたのですが、またもや難問にぶつかります。その土は水はけがとても悪く、雨が降るとグチャグチャになってしまうのです。思い悩む野田氏の目に止まったのは、大根!
大根は水はけの良い土で作られます。野田氏は、大根の産地で有名な熊内の土を用意しました。この土は、黒々としていてボールもハッキリと見えます。この土とプレーしやすい土を混ぜ合わせ、ついに理想的な土が完成しました。
こうして、1924年8月1日球場が完成します。その年の干支が甲子(きのえね)だったので、甲子園大運動場と名付けられました。その12年後、この球場は阪神タイガースのホームグラウンドとなりました。

 

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【編集後記】当時を振り返り

当時のブログを見ると、第80回あたりから偉人のVTRのナレーションを元にして、そのエピソードをまとめるようにしています。VTRは番組後半の12~3分のものでしたが端折って書いてあっても中々の文量です、10回分で結構な文字数になったので、今回からは10回くくりでまとめていこうと思います。今回まとめた分では「かっぱえびせん」「永田農法」「自動包あん機」がかなり印象に残ってます。我々が美味しく食べている裏では多くの人のひらめきや苦労があるんだなと思い知らされます。