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未来創造堂 第171回~第180回(最終回)で取り上げられた偉人

テレビ番組「未来創造堂」

この記事は、2006年4月7日から2009年9月25日の3年半、日本テレビ系列で毎週金曜日の23:00 - 23:30に放送された番組「未来創造堂」の情報をまとめたものです。「未来創造堂」とは、その人のコダワリを紹介するというバラエティ番組であり、コダワリから大発明をした偉人を紹介するドキュメンタリー番組でもありました。seesaaブログから、はてなに記事を移し、その当時を振り返った感想を書いています。

今回は第171回~第180回(最終回)で放映された偉人をまとめました。

 

新幹線の顔の未来を切り拓いた男 山下 清登

第171回で「山下 清登 物語」を放映

時速200kmで走る電車として開発された新幹線。高速に耐えられるように設計された形は、今までの電車と全く違う流線形でした。電車の顔でもある先頭車両を作り出した男が山下清登です。

山下清登さんは、日本の新幹線の先頭車両の製造において重要な役割を果たした人物です。彼は山口県下松市にある山下工業所の創業者であり、新幹線の先頭車両の流線形を作り出す「打ち出し板金」の技術を担当しました。この技術は、金属板を叩いて形を作り出す伝統的な方法で、山下さんはこの技術を用いて新幹線の「顔」とも言える先頭部分を作り上げました。

山下さんは、自動車修理工場で身につけた打ち出し加工法を応用し、新幹線の先頭車両の製造に成功しました。彼の会社は、日立製作所笠戸事業所の隣に位置し、新幹線車両を製造する日立製作所に先端部分を納めていました。山下さんの技術と貢献は、日本の高速鉄道技術の発展に大きく寄与しました。彼の技術は、軽量化や空気力学的な設計にも影響を与え、新幹線の速度と効率を向上させることに貢献しています。

 

 

耐震研究の未来を切り拓いた男 大谷 圭一

第172回で「大谷圭一 物語」を放映
阪神淡路大震災をうけ、実物大の実験施設を作る為に働いた人、大谷圭一さんの話でした。それまでの耐震の考え方は、起きた地震のデータを元に作られたものでした。実験装置もあったものの、縮小したサイズの建物でしか実験出来なかったのです。阪神淡路大震災は、まさに想定外の大地震だったのです。日本が世界に誇る振動破壊実験施設は、鉄筋4階ビルに震度7の振動を与えることが出来ます。

 

 

ファンデーションの未来を切り拓いた男 田中 洋一郎

第173回で「田中洋一郎 物語」を放映

現在のの主流であるパウダータイプのファンデーションを作った田中洋一郎さんのお話でした。

肌を綺麗に見せる化粧品のファンデーションは、アメリカの映画女優のドウランが最初の製品。その後、日本に入ってきたファンデーションもクリームタイプのものでした。それは、日本人の肌には合わず、それを改良したリキッドタイプのものも汗で落ちやすいという欠点があり、高温多湿の日本に向いていませんでした。

【ファンデーションの歴史】

パウダータイプのファンデーションは、1970年代に登場しました。それ以前の1950年代には、現在のファンデーションの原型となる製品が作られており、マックスファクターの固形ファンデーション「パンケーキ」が1937年に発売されたことで大ヒットしました。その後、1960年代には水を含んだスポンジで取る「ケーキタイプ」のファンデーションが主流となりました。

1970年代に入ると、乾いたスポンジを使うパウダリータイプのファンデーションが出現し、持ち運びが便利で手軽に使用できる点、肌への伸びが良くさらっとした仕上がりが特徴として人気を博しました。この時代から、水を含んだスポンジと乾いたスポンジを使う2つのタイプのファンデーションが店頭に並ぶようになりました。

また、1979年には水あり水なしのどちらでも使える「両用パクト」が世界で初めて登場し、夏の暑い時期には水ありの方が清涼感があり、化粧持ちも良いと話題になりました。これらの進化は、ファンデーションの歴史において重要なマイルストーンとなっています。現在では、パウダリータイプのファンデーションが主流となっており、多くのメーカーが様々な製品を開発しています。

 

 

フルートの未来を切り拓いた男 村松 孝一

第174回で「村松孝一 物語」を放映

ウィンフィルやベルリンフィルなどの名立たるオーケストラ、そこのフルート奏者が愛用しているフルートは日本製の「MURAMATSU」日本で始めてフルート作りを始めた楽器職人、村松孝一のお話は、世界に認められるフルートを目指した村松とその弟子たちの話でした。

 

冒険の未来を切り拓いた男 山田 俊哉

第175回で「山田 俊哉 物語」を放映

ヨットレースで活躍する海洋冒険家の白石康次郎。世界一過酷なヨットレースにチャレンジする白石をサポートするべく、まったく新しいセーリングウェアを開発した人が山田俊哉です。白石の要望する夢のようなウェアは、矛盾している点も多く作るのは不可能かと思われました。

 

 

砲丸投げの未来を切り拓いた男 辻谷 政久

第176回で「辻谷 政久 物語」を放映

陸上競技の「砲丸投げ」で使われる砲丸を作っている職人、辻谷政久のお話でした。陸上競技の砲丸は、選手のマイボールではなく、各国が提供した砲丸を選手が選ぶそうです。辻谷の砲丸は、アトランタ、シドニー、アテネオリンピックでメダルを独占、世界のアスリートに認められた一級品の砲丸なのです。他国の砲丸が、NC旋盤などのコンピュータ制御で作られているのに対し、辻谷は、古くからある旋盤で、己の勘を頼りに1個の砲丸を作りあげます。

 

 

マネキンの未来を切り拓いた男 島津 良蔵

第177回で「島津 良蔵 物語」を放映

マネキンを人形ではなく、アートと考え、現在あるマネキンの基礎を作った島津良蔵の話でした。マネキンの素材・スタイル・ポーズなど細部までこだわり作り上げた開発秘話を放映。

島津良蔵は、日本のマネキン製造の基礎を築いた重要な人物です。彼は島津製作所の創業者・島津源蔵の長男として生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)で彫刻を学びました。1925年に島津製作所内に「島津マネキン」を設立し、マネキンの制作を始めたことで知られています。彼のもとには、向井良吉、村井次郎などのアーチストが集まり、マネキンの制作に携わりました。島津良蔵は、人体模型で培った独自のファイバー技術や解剖学的な精巧さを活かし、芸術性を取り入れたマネキンを市場に提供しました。これにより、「島津マネキン」は評価され、1937年には国内生産の85%以上を占めるほどの成功を収めました。島津良蔵の技術と貢献は、日本のマネキン業界の発展に大きく寄与し、マネキンのメッカとも言える京都の基礎を築きました。しかし、戦時色の深まりとともにマネキンの生産と販売が中止され、戦後には再開されることはありませんでした。その後、事業は京都の各社に引き継がれました。島津良蔵と島津製作所の歴史は、日本のマネキン業界における重要なマイルストーンとなっています。

 

 

プラネタリウムの未来を切り拓いた男 大平 貴之

第178回で「大平 貴之 物語」を放映

従来あったプラネタリウムとは違う、目に見えないような星まで映し出すプラネタリウム。約100万個の星を投影するプラネタリウムを作り出した大平貴之のお話でした。
オーストラリアで見た天の川とプラネタリウムで見る天の川の違いを感じ、自宅の7畳の部屋で作り出したプラネタリウムが始まり。

 

 

カーナビの未来を切り拓いた男 田上 勝俊

第179回で「田中 勝俊 物語」を放映

現在のカーナビは人工衛星で位置を知るGPSを利用しています。GPSの無い約30年前、自動車の自動運転という企画を考えたホンダの社員が田上勝俊です。誰もが見向きもしなかったその企画を面白いといった人物が当時ホンダの専務だった久米是志でした。
自動車の自動運転を開発するチームが結成され、自動運転の第一歩として考えられたのが、走っている現在地が分かるレーダーのような装置、このシステムの技術は応用され、現在のカーナビにも使われているそうです。

 

 

プロ野球の未来を切り拓いた男 河野 安通志

第180回で「河野 安通志 物語」を放映

日本で初めてプロ野球を作った人、河野安通志(こうのあつし)のお話でした。日本では大学野球で盛り上がっていた明治時代、アメリカにはすでにプロチームがありました。観客は入場料を払い試合を観戦し、選手は球場の外でも人格者として認められた。
それを見た河野は、プロを作ることで技術や品格が向上すると考えプロチームを作ったのです。

 

 

【編集後記】当時を振り返り

第180回で未来創造堂は最終回を迎えました。番組後半に放映された偉人の話はショートドラマで中々見応えのあるものばかりでした。ただやはり記憶に鮮明に残っているのは若い回で放映された名のある会社の創始者達の開発秘話です。最終回を迎えてからも日本の技術は発展し続けているはず、またテレビ番組として復活か、今ならYoutubeチャンネルとして復活しても人気が出るのではないかと思います。